エレクトロ・エレクトロ

 八十八夜から数えて十回目の日曜日。島に磁気台風が近づいていた。空の向こうから分厚い磁気雲がせり出してきて、島の境界を形成する湾岸道路に差し掛かっている。切れ目ない一塊の黒い影は盛り上がった表面に時折稲光を走らせる。その度に数秒遅れて低い轟音が、空気を渡って届けられる。
 ナツメは自宅避難勧告もどこ吹く風、靴底より一回り大きなマグナボードを二枚小脇に抱え、高校の門を飛び越える。雷光が漆黒の髪を照らすたび後ろを振り返り、コンクリートを弾く二本の足に拍車をかけて行く。
 壊れた廊下の窓から校内に侵入すると、一旦靴を脱いで空いた手に抱える。それから二、三度リノリウムの床を確かめるように打ち、再び階段に向かって走り出した。目の奥には既に屋上の光景が浮かんでいる。ナツメの気分はシロフォンをロール打ちするがごとく段々と盛り上がり始める。
 所々タイルの剥がれた階段を一気に上り詰め古風なスチールの扉に辿り着く頃には、磁気台風は半分近く町に入り込んでいた。十文字に張り巡らされたワイヤーを空かして見る空を、白と紫が渾然一体となった球体が我が物顔に行き来する。球体は逐一その大きさを変えながら捕らえ所のない動きで磁気雲の下を巡回しているようだ。
 ナツメはここで再び靴を履きドアノブに手をかける。そして微かに帯びられた電気に驚いてすぐさま出した手を引っ込める。
「アース、アース」
 誰にともなくそう言ってジーンズのポケットから折り畳み式携帯電話を取り出し親指を素早く動かしてアースのスイッチを入れる。すると途端にナツメの全身から電気が吸い出され、携帯電話のバッテリー残量が最高値まで引き上げられた。
 その様子に満足した笑みを浮かべると、ナツメはドアノブをひねりつつ足の裏でスチール板を蹴り飛ばした。
 屋上は既に帯磁気圏内に入っているようだった。そこかしこで金網のフェンスがガタガタと揺れ、給水タンクは中身を渦巻かせ、そして紫がかった球体が現れては消える。黒雲も見上げたすぐ先にまで迫っていた。勢力範囲は直径一キロというところか。夕立と共に夏の風物詩となっている磁気台風は、今年も変わることなく本土からやって来る。
 少しの間上空の磁気雲を見やったあと、ナツメは梯子に手を掛け、勢いをつけて給水タンクの脇まで上る。そうすると島で自分より背の高い者は一人としていなくなる。四階建ての校舎は最も高い建物で、更にその屋上構築物は文字通り頭一つ抜けた存在なのだ。
 頭上から一際大きな雷鳴が轟き、次いで眼下の町に点々とついていた光の粒が洗われるように消えて行く。自主停電が始まったのだろう。島は本土と異なり古い電気系統を持っているため、磁気台風が差し掛かると電気の乱流を防ぐために自ら電源を断つ。言うなれば町全体のブレーカーを前もって落とすわけである。
 町の電気が消えると世界は光と薄闇の二色に染め抜かれる。夕方の空を覆う雲は墨を流したように黒く、懐に見えざる闇を抱えているが、生気を失った地上と相対する姿勢で光の信号を発し続けている。鮮やかな光が建物の屋根に届けば町は一瞬の生に包まれる。
 ナツメは丁度その境界線に立って、移ろい行く世界を見つめていた。
 と、ポケットの携帯電話が震え出す。ナツメはスナップを返して電話を開き、液晶に表示された名前を見て通話ボタンを押した。
「もしもし、今学校の屋上」
 通話口の向こうからノイズ混じりの声が心配げに話しかけてくる。その声を好ましげに聞きながら、ナツメはマグナボードを靴に取り付け始めた。足の裏を持ち上げスノーボードのビンディングを思わせる強化プラスチックの取り付け具を片手で器用に操り、小気味よい音を立てて装着しては踵で軽く地面を叩いて按配を確認してやる。それを二度繰り返すと、足元に生まれた軽い浮遊感がナツメの身体を不安定にする。
「大丈夫、すぐ降りるから。家で待ってて」
 そう言うと話し相手は諦めて電話を切った。少しだけ申し訳無さそうな視線を液晶に向けてから機体をポケットに戻す。手首に括っていたゴムで髪を結わく。そして今や目前に迫っている磁気台風を見据えると、わずかに目を細めて磁気の波を探し始めた。
 磁気乗りは、台風の安定しない島においてはあまり褒められた遊びではない。本土の流行りに魅せられ練習もなく空へ飛び出しては大怪我に至る若者が毎年必ず発生する。海と違って目に見えない波はどこに繋がりいつ切れるのか見極めが難しいからだ。特にナツメの使うような小型のマグナボードは自由度が高い反面バランスのとり方が煩雑で、相当習熟しなければまともに立つことすら難しい。
 ただ、ナツメは若くしてその道の達人と言える腕を持っていた。
 足元に流れてきた磁気の波を確かめるようにボードの裏で撫でて、足がかりを感じた所に体重をかけてやる。そのまま片足で一メートルほど滑ってみて足元に小さな球体がまとわりついてきたら波を掴んだ証拠だ。残った足を見えない波に乗せて屋上を軽く一周し、感触を見て一度給水塔の上に着地。島をぐるりと見渡すと、磁気波全体の重みと指向性を視界に刻み込んで本格的なライディングに踏み出した。
 始めはやや速度を抑えめに緩やかな斜面を蛇行して滑る。慣れてきたら滑空を交えての大掛かりなトリックを展開する。地上三階分の高さから一気に滑り降り、そのままオーバーハングする波を利用してのバックフリップ。身の丈ほどもある球体をバネにして再び屋上の高さまで駆け上がり、後ろ足を滑らせて三百六十度スピン。視界が回転して磁気台風と夕焼けが混ぜこぜになって飛び込んで来る。加速度がついた世界を稲光が疾風のように駆け抜け、空を割って硬質な音を響かせる。ナツメの口元に楽しげな微笑みが浮かぶ。
 モーグルのように細かな波をかきわけて走り、その先にある大きな瘤を利用して三メートル級のジャンプ。身体を反らせてテイルグラブを決めると自分が電子の輪になった感覚を手に入れられる。それから家の屋根をいくつも飛び越える。平面状に伸びた薄い波をアイススケートの要領で滑って行く。大回りに右へ左へ、夕空に描かれる模様は八の字とも無限大とも言えそうだ。
 滑空の勢いがなくなってきたと見るや磁気の壁にドロップキックをお見舞いする。反動のついた身体が空中に投げ出される感覚はなかなか他では味わえない。更に加速をつけて、今度は世界記録を塗り替える三十メートルの水平ジャイアントジャンプ。人の域を超えた感動に全身が震えるのを強く感じる。
 そして校舎の近くに見つけたチューブで再度バックフリップを敢行すると、波打つ髪の向こうに自宅のマンションが姿を現した。
 さて、どうしよう。ナツメははたと考えた。すぐ降りると言った手前、さっさと切り上げてしまわないと文句の三個や十個は軽く飛び出してきそうな気がする。しかし、悪くない波なのだ。もう少し遊んでいたい。
「わかるよね、きっと」
 同居人の心中を勝手に察してナツメは回転する世界に更なる蹴りを入れた。パイプのように連なった磁気の波を螺旋状に駆け抜け小さな磁気の爆発を無数に描き出して行く。両足の下で弾ける紫は磁気台風という海が溜め込んでいた泡のようにも見える。
 周囲を取り囲むように収縮を続ける大きな泡、自分が生み出した細かな泡、そして空に道を造る雷光。黒々とした磁気雲から吐き出される生命を全身に受けながらナツメは一人、やわらかなタッチでロンドを踊っている。

後書き
 前の話でマインドフォンを出したのに、何故か今回は携帯電話になっています。許してくれ。


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