脱出

 何度目かの浅い眠りから目覚めた時、ユウはようやく学校を休む決心を固めた。電車が止まってから軽く一時間は過ぎていた。左肩ではナツメがおかまいなしに寝息を立てている。初夏の熱気を受けて、真っ白な首筋にはうっすらと汗がにじんでいる。休むのはいいけどこの子はいつ起きるんだ。起こすと不機嫌になるし、どうしよう。ユウは袋小路に行き着いたような気分になって、力なく天井を見上げた。
 暑気の漂う車内に、残っている人影は少なかった。暇そうなTシャツ姿の青年、鞄を抱えて眠るサラリーマン、不機嫌そうな中年。車掌と運転士は運転室の外に出て喋っている。勝手に折り返し運転を行なって良いものか云々。時間から逃げ出して来たような一帯。幹線道路の渋滞は一向に解消しない。
 突然、世界が揺れた。揺れたというより震えたと表現するのがしっくりと来る動きだった。地球が起き抜けに伸びをしたみたいだという一節がユウの頭に浮かぶ。だが、どう考えてみてもそんな大層な表現を必要とする状況が見つからない。
 振動に続いてくぐもった炸裂音が空気を渡って来た。今度は地球がニキビでも潰したのかとユウは表現し、更に使い道がなさそうで辟易する。誰が何を爆破したんだろう。ユウは不安を覚えつつ車内を見回す。他の乗客も気付いているようだが、皆特に関心はない様子だった。
 そうこうしている間に世界の震えは過ぎ去って行った。続いてナツメがユウの肩から起き上がり、大きなあくびを一つした。目をこすり、髪を指ですき、ゴムをかけ直し、口元に付いたよだれの跡をハンドタオルでぬぐう。それからユウの方を見ると、そちらも軽くふいた。
「ごめーん」ナツメはユウのYシャツに浮いた小さなしみを指でいじった。
「いいよ。すぐ乾くから」
「乾くからとか言わないでよ」ナツメは口をとがらせる。「そういや、地震じゃなかった?」
「どうだろう。何か爆発の音が聞こえたけど」
「テロかも」
「テロはやだな」とユウ。席から立ち上がって扉脇の非常ボタンを押す。「車掌さんに聞いてみようよ」
 車掌と運転士は、音のした方を指さしたりしながら何やら話をしていた。誰も騒いでませんね。今さら憩いが壊されたって誰も驚かん。それからユウ達が近付いて来たことに気付くと、反射的にユウと視線を合わせ、君達もかとでも言いたげな表情を見せた。
「何かあったの」先陣を切ってナツメが声をかける。眠気の残り香すら感じさせない歯切れの良さ。そして遠慮のかけらもない。ユウも物怖じする方ではないが、大抵の場合踏み出すのはナツメである。
「憩いが壊されたらしい。多分公団がやったんだろうがね」初老の運転士が滑舌良く答え、気の弱そうな車掌はうんうんと頷く。
 ナツメは彼が指さしていた方向に目をやる。数百メートル先から重々しく立ち上る、砂色の煙。 「憩いってどれだっけ。タワーだよね」
 ユウは頷く。「一番新しいやつだったと思う」
「一番値段の高いタワーでもありましたね。いや、高かった、ですか」丁寧に言い直したのは車掌である。自分の言葉が面白かったのか、語尾が半笑いになっている。
「どうして壊されたんでしょう」
「人がいなくなったからだね。それ以外に理由はない。勝手なもんだ。自分らで作っといて、都合が悪くなるとすぐ潰す。何も変わっちゃいない」運転士が一息で言い、不快そうに煙草をふかす。
「封鎖されてるかな」とナツメ。目に好奇心の色を浮かべている。
「されておらんだろ。近付き過ぎなければ」
「じゃあ見に行く」ナツメは右手を上げて宣言した。
「行くの?暑いよ」
「ここにいたって暑いよ。行こう、ね?」言うが早いかユウの腕をとる。ユウは諦めて頷いた。毎度の事なのだ。
 ナツメはにっこり笑うと、眼前に広がる工場の群れに向かって砂利道を早足で歩き始めた。運転士達に、またねと一言。
 運転士は一旦手を振って彼らを見送ったが、少ししてからふと思い出したように声を張り上げた。「君達、学校はいいのか」
「あとで電話しておきます」ユウは首だけ振り向いて答えを投げ返す。すでに電車との距離が大きく開いている。
 ナツメは振り返らないまま素早く手を振り、軽い駆け足になった。半ば引っ張られるような形でユウが後に続く。残された二人は顔を見合わせて、苦笑いともうらやみともとれる表情を浮かべる。太陽は彼らの真上近くまで昇って、一部の隙もなく夏の空気を生み出し続けている。

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