一八五〇

 アヤセは鈍い足取りで階段を上り切り、やっとの思いでホームに出た。内側に向かって傾斜した屋根、木製のベンチ、自動販売機。古めかしい売店は錆の浮いたシャッターを下ろしたままオブジェよろしく突っ立っている。ホームの右側には数本の線路が交わりながら延びていて、一番奥の線路に黄色い点検用車両が止まっている。車両の頭には赤いランプが鎮座しているが、そのくすみようと来たら本当に光を通せるのか怪しい程だ。そして線路の向こうには二階建てのプレハブ小屋が一軒。降り注ぐ日射しに塗り固められたように、平らな壁を白く輝かせて砂浜の手前を占拠している。目と鼻の先に広がる内海からは、わずかに潮の匂いを帯びた風とさらさら打ち寄せる波の音が流れてくる。
 まだ六月初旬だというのに空気はまったく真夏の様相を呈している。天気予報が当たる最悪のパターンだ。アヤセは心の中で毒づいた。まくり上げたYシャツの袖で額の汗を拭うとベンチに勢い良く座り込む。それから一つ舌打ち。ベンチまで熱いなんて。
 ホームには、電車待ちの人間はおろか駅員の姿さえ見当たらなかった。アヤセは地下改札で駅長を見て以来全く人間と出会っていない。世界にいるのは自分と太陽と無機物だけだ。アヤセは屋根に吊られている時刻表を見上げた。次の電車までは二十分ある。あと二十分だけ世界は自分のものかもしれない。それならまあいいか。アヤセは口元に笑みを浮かべた。
 汗の波が去って行くのを見計らってアヤセは席を立った。腕時計は電車の到着まで15分と言っている。とりあえずホームを二、三周すれば半分くらいにはなるだろう。
 ホームの先までゆっくりと歩き、それから黄色い線に乗って逆端を目指す。平日の朝だったら通勤客の邪魔にもなるだろうが、土曜日の昼過ぎに押し合って乗ろうとする人間はいない。アヤセは軽い空しさを覚えた。それなのに自分はわざわざ学校に行くのだ。休日なのに制服を着て。二十分も電車を待って。
 階段の脇を抜けて売店に差し掛かる頃、アヤセは変化に気が付いた。人の気配がする。いや、最初からいたのに自分が気付かなかっただけなのか。彼は障害者用のラインを外れて売店の向こうにあるベンチをうかがった。
 所々にしみの浮いた背中合わせのベンチに制服姿の少女が座っていた。本を読んでいるのか、小さな頭が下を向いている。奥側に座っているおかげかアヤセには全く気付いていないようだ。その後ろ姿はとても静かで、わずかに規則正しく上下する肩の他にはほとんど動きがない。整然とそろえられた黒髪は乱れを知らないかと思える程なめらかな線を描いている。
 一八五〇。アヤセの頭に数字が浮かび上がった。一年八組五十番。女子の出席番号一番目。アヤセの高校では四桁の学籍番号を全員が持つ。学年とクラス、男子と女子でそれぞれ〇〇と五〇から始まる下二桁。アヤセは一八〇〇、麻生は一八五〇。アヤセは、彼女が目に入るとまず切りの良いその番号を想起する癖がついていた。
 麻生夏奈。アヤセのクラスで最も大人しく、他人への主張をほとんど見せない少女。身軽で如才なく言葉も多いアヤセとは性格的な隔たりがあったが、その割に不思議なほど行動を共にする相手だった。
 アヤセは麻生に負けないくらい静かに、時間をかけて彼女の反対側のベンチにたどり着いた。麻生はそれでも彼に気付かない様子。気付かない振りをしているのか。アヤセはいぶかりながらベンチに膝を乗せ、麻生の手もとを覗き込む。文庫本が控えめに開かれている。その開き方一つをとっても彼女の性格をよく表しているように見える。彼女がページをめくる度、紙のたてる乾いた音がアヤセの耳を刺激した。
 入学してからしばらく、アヤセは自分と麻生がしょっちゅう行動を共にするのは最寄り駅が同じからだと思っていた。場所とタイミングの問題なのだと。だが、一ヶ月が過ぎたある朝にそれが間違いだと気付く。その日、アヤセは電車をわざと一本乗り逃がした。麻生が来ると感じたからだ。そして間もなく麻生は来た。アヤセは階段を上がってくるその姿を見て、自分が麻生の近くにいるのは偶然でない事を知ったのだ。
 麻生が突然肩を震わし、勢い良く上半身をよじって彼を見上げた。アヤセもまた回想を中断された驚きから一瞬顔をこわばらせたが、すぐに手を上げて軽く挨拶する。麻生は予想外の出来事に襲われたような表情で何も答えられない。先ほどまで一部の隙もなかった麻生の呼吸は今や長距離走を終えたばかりのような乱れよう。端正な唇はわずかに震え、両手は文庫本を持ったまま胸の辺りでしっかり握られている。
「ごめん」アヤセはとりあえずといった口調で謝った。悪気はなかったという笑みを浮かべて。
 麻生は一旦息を整えてから小さく首を振った。
「気付いてると思ってたんで」
「ごめんなさい。全然気付いてなかった。本読んでたの」
 アヤセは頷いた。「面白い本?」
 麻生はまた少し間を置いてから、本を閉じて首を振った。「あんまり。ただ途中でやめられなかっただけ」
 そして彼に本の表紙を見せた。有名で読みづらい類の文学作品。アヤセは笑った。「麻生ちゃんも面白くないって思うんだな。こういうの好きなのかと思ってた」
「そう思われてると思ってたよ、わたしも」麻生も笑みを返して本を鞄にしまう。気分は落ち着いた様子だ。
 それだけ話すと二人の間に言葉はなくなった。しばらく前から、アヤセは麻生との間に訪れる沈黙を全く苦痛が伴わないものだと感じるようになっていた。努力をしてまで会話を続ける必要はなく、一緒にいるという事そのものが一つの形を作ってくれる相手なのだ。麻生は本をしまうと再びベンチの正面を向いて座り直し、アヤセは背もたれの上に両手を乗せて彼女と同じ方向に目をやった。
 陸側にも数本の線路が絡まりながら横たわっていた。奥には木造1階建ての駅舎があって、小さなロータリーに睨みを利かせている。その向こうに広がる町は工業地帯と住宅地がまだら模様を描いていて高層建築物は一つも見られない。町の上には白みがかった低い空。出来かけの入道雲だけがのそのそと動いている。
 アヤセの思いはもはや確信に近付きつつあり、麻生の態度や言葉にも自分と同じものを感じていた。あるいは期待していた。そして、そのために動くタイミングは今しかないように思えた。アヤセは何かに祈ろうとしてそんな相手などいないのを思い出し、悩んだあげく麻生に祈った。どうか同じ気持ちでいてください。
「ねえ」遂にアヤセが沈黙を破った。
 今度は麻生も驚いたりせずに首をかしげるような格好で彼を見上げ、顔にかかりかけた髪を耳へと掻き上げた。アヤセの一番好きな仕草。彼女の内に秘められた涼感が髪の流れを伝って届いてくる。
 アヤセは右手を背もたれから外して彼女の肩にかけ、羽根に触れるような軽さで少しだけ引き寄せた。麻生は一瞬の半分だけ身を固くしたがすぐアヤセに身を委ねる。アヤセは彼女の唇に吸い寄せられるようにキスをした。
 唇が触れるのと同時に、もしくは触れるより早くか遅く、彼は麻生に恋をしている事を知った。そして彼女の唇はこれ以上なく魅力的だった。厚くはないがとてもやわらかく、温かいだけてなく静けさを内包していて、触れているだけで繋がりを感じるような唇だった。
 とても長い時間が過ぎてから、彼の頬に冷たい手が触れた。アヤセは顔を上げて彼女と目を合わせた。わずかに頬を染める麻生はわずかに目を潤ませているようで、その表情は彼のためだけに存在しているように見えた。
「アヤセ君」
「やっぱり好きなんだよ、麻生ちゃんのこと」アヤセは彼女の言葉を遮るように言い、手のひらに汗がにじむのを感じた。
「やっぱり?」
「やっぱり」
「悩んでたの?」
「よく分からなかったんだよ」
 麻生は楽しそうに笑った。「アヤセ君ってそういう人じゃないと思ってた」
「そう思われてると思ってた」アヤセも笑う。
 ひとしきり笑ってから、麻生は体を戻して髪をかき上げた。
 それからまた心地よい沈黙が流れた。
「ねえ」しばらくして、今度は麻生が口を開いた。振り向いたその顔に揺れ動くものはない。
 アヤセは黙って彼女の目を見た。
「さっきのキス、十年くらいたって私達が大人になった時に思い出すかしら」
「多分ね」
「あの時は良かったとか言うのかな」
「それはパスしたいな。俺はそういうの好きじゃないから」
「それじゃ私もパスするね」
「そうしてよ」アヤセは右手を彼女の前に差し出した。麻生はそれを両手でやわらかく握る。
「アヤセ君、汗かいてる」
「緊張したんだよ」アヤセは目をそらす。
 麻生はもう一度、楽しげに笑った。そして沈黙が戻る。
 電車の到着までにはまだ時間があって、世界は二人のものだった。

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