Seagull

 ナツメはやっとの思いで自動販売機にたどり着くと、前屈みになって一息ついた。優に五百メートルは走っただろう。完全に息が切れている。止めどなく流れる汗は自慢のストレートヘアを首筋に貼り付かせ、制服をまんべんなく濡らしている。鞄から取り出したフェイスタオルで顔と腕を一拭き。そのまま首にかけて目の前の機械へと視線を移す。
 昔ながらの自動販売機だった。重々しいくらいに厚みがあって、見た事もないような飲み物が混じっていて、コイン投入口の脇で八の字に並んだ小さなランプがついたり消えたりしている。冷却機の音は警戒心の強い獣を思わせるような低く震えるうなり声。
 指先に汗をにじませながら硬貨を入れると、それに応えるかのように半分以上のボタンが売り切れの文字が浮き上がらせた。
「うそ。最初から点いててよ」驚きの声をあげて口をとがらせる。それから少し迷って炭酸飲料のボタンに手を伸ばした。
 ガタガタと何度も引っかかるような音を立てながら取り出し口に真っ赤な缶が落ちて来た。急ぐような手つきでそれを拾い上げると冷えているのを確認して首筋に当てる。神経をつつくような冷たさが背中を通り抜けて、ナツメはわずかに身を縮めた。
 不意に安っぽい電子音が目の前から飛んできた。見ると、八の字の真ん中でランプが点滅している。当たり、もう一本。
「Yeah」うさん臭い発音で喜びながら軽やかに鞄を振る。それから汗ばんだ指をおもむろにスポーツドリンクのボタンへ。ユウは多分これを選ぶだろうから。オレンジジュースでも混ぜ物みたいな炭酸でもなく、何だか体に良さそうな清涼飲料水。やっぱ炭酸だと思うんだけどな。つぶやきながらよく冷えたアルミ缶を取り出した。

 この先に自動販売機なんてあったのかな。ユウは足にへばり付くスラックスを指でつまみながら考えた。
 線路を離れてすぐ、ナツメは自動販売機までと言って走り出した。暑さなんか完全に無視して。
 ユウも最初の百メートルは何とか並んで走ったのだが、どうもアスファルトの向こうに目当ての物が見つかる予感がしなかった。そして、空と地面から挟み撃ちにしてくる熱気はさっさと気力をそぐのに十分な威力を持っていた。
 汗まみれになりながらきつく握った手を離して先に行かせる時、自販機でともう一度言って彼女は更に加速した。初めて通る道なのに。
 きっと、本当に自販機が見つかるまで走り続けるんだろう。とにかく倒れる前にたどり着いてくれることを祈るしかない。陽炎に溶け込みそうな後ろ姿を見失わないよう努力しながら考え、鞄からペットボトルを取り出して一口飲む。最初からこれを出していれば良かったかな。
 いや、それでも走ってたに違いない。それがナツメだから。
 そんな事を考えていると遥か彼方をリズミカルに行く影が唐突に動きを止めて、道路の右脇にゆっくりと立ち止まった。ユウは安堵のため息をつく。自動販売機はあったんだ。

 道端に積まれたブロックに座って炭酸を軽くあおると、ようやく周りの様子がよく見えてきた。大型トラックが三台は並んで通れる幅を持っていながら中途半端に鋪装されたまま放置されたような道路。アスファルトの所々に小さなひび割れがあって、何をどうやってかわからないけれど雑草がぽつぽつ顔を出している。両脇は背の低い工場と倉庫達。どれも広いばかりで新しさやスマートさは見てとれない。壁や屋根には赤茶けた錆が浮いていて時代を感じさせてくれる。
 辺りには巨大なファンを回しっぱなしにしているような鈍い音が辺りにたちこめていて、それがまた暑さを助長しているように感じる。あとは油の臭い。初夏の空気に入り交じって制服に染み込んできそうな生々しさを持っている。
 ナツメはもと来た方角に向き直った。線路の外れからひたすら走ってきた道。地面と空の境目近くがにじんでゆらゆら波打つように揺れている。遥か彼方に見える線路はもはや輪郭すら怪しい。ようやく向こうから見えて来たユウの姿は黒ずんだ海をのろのろと進む小舟みたいだ。大声で呼ぼうとして、すぐに思い直す。その前に自分の格好を何とかしないと。学校指定の白いYシャツは今や体に貼り付いた斬新な服。水色のキャミソールが完全に透けて見えてしまっている。これを見たらユウはきっと恥ずかしがって、とりあえず文句を言うに決まってる。
「あいつが来るまでに乾かないかな。無理かな。うん。無理だね」諦めたように炭酸をあおる。痛みにも似た、弾けるような刺激が喉を通り抜けた。「あーあ」
 そうしているとわずかな駆動音が聞えて来て、マイペースで歩くユウのすぐ後から巨大な車が頭を出した。

 右方向、幹線道路へと続く分かれ道に差し掛かった時、その奥から小さな駆動音が聞こえてきた。振り向くと大きくて白いトラックがこちらに向かってくる。幅広の道と夏とトラック。いい組み合わせだな。ユウは誰にともなくつぶやいた。一緒に歩いていたらナツメに向かって言えたのに。
 トラックは音からして完全な電動式のようだった。真っ白い外見と相まってどこか生活感のない車。ある種の排他的な空気すら感じさせるそれは、おそらく本土から来たのだろうとユウは考えた。島の車はどんなに手の込んだものでも親しみをなくしてはいないのだ。それが良いのか悪いのかはわからないけれど。
 構わずにT字路を渡ってナツメの元を目指していると、後ろから静かにモーターのささやきが付いてくる。彼も角を曲がったようだ。邪魔にならないように道の脇へ。間もなくして白い巨体が脇を通り越して行った。わずかに動いた空気が心地いい。運転席を見ると、ドライバーがおもむろに上げた右手が目に飛び込んできた。慌てて挨拶を返し、胸にちょっとした親近感が芽生える。
 彼が行ってしまう時、コンテナの最後部に3文字のロゴが見えた。輝くような白の中に一箇所だけ残された青。
「Seagull!」ユウはロゴを指差して小さく叫んだ。なんて運送業者らしい名前。

 車輪が十八もあるとても大きな奴だった。その巨体に似合わない滑らかな動きで角を曲がり、こちらに向かって加速を再開する。ユウが素早く道の端に寄ってやり過ごすのが見えた。こういう時にクラクションを鳴らさせるような真似は絶対にしない。やっぱね、と好意的な独り言。
 それは間もなくナツメの元までやって来て、計ったように動きを止めた。白く染め抜かれたコンテナのまぶしさに思わず目を細める。コンテナだけではない。運転席からパイプから、果てはタイヤのホイールまで隙のない白。そして、排気ガスの臭いは全然しないしアイドリングの音も聞こえない。周囲から完全に浮いた、電気で動く無菌室。本土だ。ナツメはわずかな棘を含んだ視線で見上げる。
 おもむろにドアが開いて、二十代半ばの男が降りてきた。白地に鮮やかな青が映える、ツナギを上下真っ二つに切ったような制服。同じような色合いの帽子で顔を扇いでいる。男は脇目もふらず自動販売機の前に立つとポケットをジャラジャラ言わせながら小銭を取り出し、冷たい緑茶のボタンを押した。転がり落ちた缶が取り出されてから一呼吸置いて再び電子音が機械から流れる。はずれ、残念でした。
 男はそんな結果に目もくれず緑茶を半分ほど一気に飲むと、初めて気づいたような顔でナツメを見下ろした。
「逆ナンパ?」
「おっさんお断り」
「まだ二十六だよ」男は傷ついた様子で言った。「そんな格好してるとさらわれるぞ」
「そういう所がおっさんなんだよ。もうすぐ彼氏来るから大丈夫だもん」
「こんな所で待ち合わせかよ」
「や、途中で置いてきちゃったの。線路から走って来たんだけど、何かもう歩きたくなったみたい」そう答えて笑う。
「ひでえ」男は顔をしかめながら線路の方角を見た。ナツメもつられて振り返る。逃げ水に浮かぶ姿は百メートル程の所まで近づいているようだった。時折タオルで顔や首を拭きながらマイペースに歩を進めている。
「だから、あんまわたしにちょっかい出してるみたく見られない方がいいよ。喧嘩強いんだから」
「気ぃつけます。それは彼氏の分?」そう言ってナツメの傍らに置かれた水色の缶を指差す。
「うん、あいつアクア野郎なの」ナツメはにっこり笑って答えた。

 ナツメがドライバーと喋ってる。
 位置から見て特に何かをされる感じはないが、それでも何となく気に食わない部分はあった。あまり好きではない感覚がみぞおちの辺りに現れる。ああ、いけない。それを振り払おうと、慌てて首を横に振る。
 ナツメの所まではもう百メートルを切っていた。呼べば振り向く程度の距離。ここから声をかけてみようか。いや駄目だ。ドライバーを意識していると思われるのは何だかしゃくにさわるから。ばれるかもしれないけれど、とにかく気にしない振りをして行かないと。そう言えばさっき二人がこちらを向いていたのは何だったんだろう。
 時刻は10時半を回って、いよいよ太陽が本気を出している。地面からは見えない湯気が立ち上っている。アスファルトの割れ目から顔を出している雑草だけが本当に元気で、他は全て夏に押しつぶされているようだ。ユウは道の両脇に並ぶ背の低い工場達を見やった。機械油の臭いと時折鳴るブザーの音。それに身を沈めると、自分が何故ここにいるのかよくわからなくなる。タワーを見たら学校に行こう。ナツメも自分もあそこが嫌いな訳でもなんでもないんだから。
 トラックの最後尾に差し掛かり、いよいよ二人との距離がなくなった。どっちに声をかけよう。できるだけ何も知られたくない。心臓がわずかに高鳴るのを感じる。何でこんなに緊張しなければならないんだと、ユウは心の中でドライバーに毒づいた。
 ナツメが再びこちらに振り向いて笑顔を見せた。ドライバーも帽子で扇ぐのをやめ、軽く手を振りながら挨拶をよこす。ユウは散々迷った挙げ句、手を挙げて言った。
「お待たせ」


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