イチハチゼロゼロ(前半)

 麻生は淡々とした足取りでホームに出ると、周りの景色も確かめずにベンチへ向かった。閉じた売店に遮られて階段からは見えない古びた木のベンチ。所々にジュースか何かのしみがついてはいるものの、それを補うだけの安心感を与えてくれる麻生の特等席だ。休日に登校する時は大抵30分早く家を出発し、ここに座って文庫本を読む。
 改札で駅長が言った通りだとすると、電車は軽く十分以上遅れている。腕時計を一目見てから頭の中に時刻表を浮かべた。学校の方へ行く電車が来るまで四十分と少し。暑さは気になるけどゆっくり時間を使えそう。口元に微笑を浮かべ、固い腰掛けに座って文庫本を取り出した。特に興味も持てない古典文学。かすかに黴のにおいがして、本の歩んで来た歴史を感じさせてくれる。
 こんな本を読んでるから敬遠されるのかな。麻生は考えた。別に全部が全部面白いと思っているわけではないのに。クラスの大部分はきっと勘違いしてる。よく本を読んでいる事とみんなが読まない本を読んでいる事だけで自分を判断している。
 そんなつもりじゃないんだけど、でも理由を話したところで簡単に分かってもらうことなんかできない。
 小さくため息をついて本を開くと飛び込んで来る小難しい文章達。いつも通りの自然な流れで、彼らの上に視線を走らせる。そこに心の動きはない。言ってしまえばそれは何だって構わないのだ。ただ自分を連れて行ってくれるものであれば。
 間もなく色あせた紙に印刷された文章は麻生の視線を吸い込んで、間もなく彼女の意識を非現実へと滑り込ませた。

 麻生はそこを白い部屋と呼んでいた。いつからか麻生の中にある、読書に没頭すると現れる虚無的な空間。白い部屋では風景全てが純白に満たされている。普段なら錆が目立つ売店のシャッターも、ロータリーの向こうに見える工場や家も、どれもが柔らかな白である。ただ輪郭だけは精巧な機械で線を引いたかのようにはっきりと浮き上がっていて、そこが本当の虚無ではない事を知らせてくれる。
 白い部屋では自分と本だけが色を持っている。普段なら鈍さを伴うインクの黒は心持ち鮮やかに、躍動感を持って頭に飛び込んで来る。白い白いと思っていた自分の肌も少しは健康的に色付いているし、Yシャツの白だって純白ではないとわかる。そこには白と自分と本だけが存在を許されている。
 麻生の思考はその世界で真の自由を得ることができた。何しろ自分だけの世界なのだから。普段は無意識から這い上がって来る観念の足枷などここでは全く意味をなさない。感覚は集中し研ぎすまされ、想像はどこまでも飛んでゆく。仮に純粋な思惟というものがあるとしたら白い部屋がそれなのだろうと、麻生は半ば本能的に思っていた。

 十分ほど経った頃だろうか、ロータリーに人の気配がした。反射的に意識を文庫から離し、世界の色が瞬く間に返り咲く。顔を上げると、背の低い駅舎の向こうにひょろりと背の高い男の姿が見えた。
 イチハチゼロゼロ。発音の形が頭に浮かんだ。わたしはイチハチゴーゼロ、あっちはイチハチゼロゼロ。高校に入って付けられるようになった4桁の学籍番号。そして彼に怒られたことを思い出す。
 違うよ麻生ちゃん、千八百じゃなくてイチハチゼロゼロ。それじゃ千八百番目のレッテル貼られてるみたいだよ。俺は千八百じゃなくてイチハチゼロゼロのアヤセ、麻生ちゃんはイチハチゴーゼロの麻生ちゃん。その方がいいって。いいに決まってる。
 心の中で4桁の数字を唱えると、その時の感覚が呼び起こされる。真っ暗な水面に波紋が生まれるように。言いたい事はよく分からなかったけど、何となく納得してしまう心地良さ。
「アヤセくん」麻生は一言つぶやき、心が揺れるのを感じた。
 それをごまかすように急いで本へと意識を戻す。再び現れる白い部屋。アヤセの姿も意識的に除外する。焦らなくてもすぐに会えるから、今はここで静かに待っていよう。

 アヤセは麻生にとって初めての男友達であり、それと同時に世界を切り拓いてくれた恩人でもある。
 初めて話したのは入学式の日。同じ駅のホームだった。中学は一緒だったもののクラスが違ったために顔と名前しか知らなかった彼は、しかし何の躊躇もなく話しかけて来た。半ば挨拶もすっ飛ばして。中学を卒業するまでほとんど男子に話しかけられたことがない彼女の心境など、まるで歯牙にかけない気安さで。
 そんなわけでアヤセの第一印象は決して良くなかったし、返事もおそらく麻生の半生の中で一番疑念にまみれたものとなった。おそらくアヤセも予想できなかったほど酷な対応だったのだろう。その時に見せた表情は二ヶ月経った今でも鮮明に思い出すことができる。自分の意図とは関係なくひどい事をしてしまった男のみじめそうな顔。それから彼はあわてて取り繕うように付け加えた。
「キャッチセールスじゃないよ」
「わかってます」麻生は呆れ声で返した。
 そんな事をしていると、いつの間にやら普通に喋る仲になり、ふと気づけば一緒の電車で通学するまでになっていた。
 最初に嫌な顔を見せられたおかげだろうか、打ち解けるのに大した時間はかからなかった。アヤセはその口調と同じだけの気軽さをもって麻生に歩み寄ってきたが、元来受動的な麻生にとってそれは丁度良いバランスだった。
 事の進展があまりに早いせいで狐につままれているようないぶかしさは常にあったが、彼といるのはそれを差し引いても概ね気持ち良いものだった。絶えず作られる流れとかすかな浮遊感。そして、時には大きな発見や刺激をもたらしてくれた。
 アヤセが何気なく放つ言動はいつもどこかに軽々しさを内包していた。しかしそれらは折に触れ、麻生が自然に受け入れていた物事を再考のテーブルに放り投げてくれた。例えば電車が車の渋滞に遮られて停止すること、島が本土の実験に使われること。麻生が気にもとめていなかった事柄達をアヤセは至極当然といった風に取り上げてこねくり回し、優しくパスしてくれた。中学まで付き合いのあった友達や教師とは全く異なる立ち位置。

 本に視線を残しながら、麻生は白く染まったロータリーに再び意識を移す。アヤセはもう駅に入って来ているようだった。乗用車が1台横切っている他は何も動きがない。静けさの中に密やかな孤独が息づいている。
「あ―」言いかけて口をつぐむ。
 あの日、アヤセ君もこんな風景を見ていたのかな。


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