イチハチゼロゼロ(後半)

 麻生はいつになく焦っていた。元来物事が予定通りに進まないことで心を乱されやすい質ではあるのだが、今日はそれだけが原因ではない。急がなければアヤセとの約束に間に合わなくなってしまう。約束を破ってしまうことへの恐怖が麻生の焦りを加速させていた。
 そもそもアヤセとの間に明確な約束がなされていたというわけではない。始業式の日に偶然一緒の電車に乗り、それが次の日も続いたことで暗黙の了解が生まれたのである。二人は何か打ち合わせをするわけでもなく七時五十八分の電車に乗る。前の電車が行く頃麻生がホームに着き、五十八分の電車到着が放送されると決まってアヤセが現れる。大抵は少し息を切らせて。それはわずか一ヶ月余りで二人の間に確立した朝の様式だった。
 小走りに駅を目指しながら腕時計をちらりと見る。黒い文字盤の上で光る分針が、次の信号を待たずに渡れれば間に合うと無言の指示を返してくる。彼の返答はいつでも正確だ。麻生が時計を持っていないと言った時にアヤセがくれた腕時計。男物でやや無骨さが目立つものの、今や麻生の腕になくてはならない存在である。
 眠そうなサラリーマンを二人まとめて抜くと、時計が告げた最後の関門が見えて来た。六車線から成る第五幹線道路。本土の計画によって建設されたそれは島の真ん中を傲然と分断し、昼夜を問わず巨大な重機やトラックが我が物顔で行き来する。今日も朝から盛況なようだ。麻生は額に手をかざし、三階くらいの高さにそびえる信号を読む。丁度青から黄色に変わろうとしている所だった。安堵のため息をついて速度を落とす。何とか間に合いそう。
 麻生が横断歩道に差し掛かった時、右側から白塗りのトラックが走り込んで来た。白子のダックスフンドを思わせる胴長の巨体に、カモメの三文字が鮮明に刻まれている。信号は既に赤の一歩手前だが、減速する素振りは見せない。
 運転席の頭が交差点まで十メートル程度に近づいた所で信号は停止命令を出した。トラックは慌てて加速するも、交差点の奥に先行車を発見するとすぐさまブレーキに切り替える。しかし減速は間に合わない。通行人があぜんとする中、ドライバーは必死に中央分離帯側へハンドルを切った。まず運転席部分が機敏に反応し、半歩遅れてコンテナが続く。
 トラックは横断歩道のすぐ手前で縁石に乗り上げると、麻生が悲鳴を上げる間もなく交差点へと倒れ込んだ。耳障りな摩擦音に続いて突風と細かな部品、砂煙が舞い上がる。麻生は両腕で顔をかばいながら何とか事故の様子を見極めようと努力した。
 ドライバーはどうやら無事なようだった。時計回りに四分の一回転してあちらを向いている運転席の窓ガラスを叩く音が聞こえてくる。一方、トラック本体はコンテナのロックが壊れたのか扉が開放されており、満載されていた真空パックの鶏肉がいくらか道に散乱している。そのすぐ傍には転倒した自転車と腰を抜かした様子の学生。通行人も自動車も、あまりの出来事に文句の言葉を固められないようだ。
 そんな中サイレンが鳴った。信号機から放たれたそれは、まるで一キロも向こうから届いたような深みのある響きとなって現場にこだまする。サイレンは数秒間続き、入れ代わりに交差点の四隅から赤い光の柱が立ち上がった。柱は信号機と一瞬で同じ高さまで伸びると各々の間にも橋を渡し、直方体の骨組みを形作る。信号機は一斉に赤ランプをともした。立ち入り禁止区域の指定である。
 後ろから諦めと怒りが混ざり合った濁流のようなため息が流れて来た。早速電話連絡にかかるサラリーマン、強行突破をはかる親子、立ち入り禁止空間のすぐ脇をすり抜けて行く少年。交差点に活気が生まれる。本流は二百メートル先の横断歩道への迂回だが、反体制的な行動に出る者も少なくはない。
 麻生は迷う。普段なら時間はかかっても遠回りするところである。一応の決まりだし、危険には違いない。だがしかし、そんな事をしていたら電車に間に合わなくなる。否。アヤセが行ってしまう。
 警察官らしき二人組が現場にやってきて昔ながらの警棒を回し、直方体に入ろうとする人間を遠ざけ始めた。麻生は泣きそうな気分でその光景から遥か彼方の横断歩道に目を移した。それからもう一度腕時計の文字盤を睨む。心の中でごめんなさいとつぶやく。
 麻生はうつむきがちに、しかし思い切り良く赤い線を跳び越えた。
 最初の一歩さえ踏み出してしまえばあとは簡単だった。恐怖は既知のものとなり、覚悟は自動的に決まる。麻生は近寄って来る警察官を無視して横断歩道を駆け抜ける。後ろから追いかけて来る注意の声を振り払うように、鞄を抱えたまま両腕を振る。警察の一人が立ち去るよう命じた時にはもう中央分離帯に差し掛かっていて、彼らに出来る事は何も残っていなかった。警察官は最後の抵抗とでも言わんばかりに笛を鳴らす。麻生はわずかに首を曲げて気付いた素振りを見せ、軽やかにとどめの一言を放った。「急いでるんです!」
 それから道路を渡り家と工場と飲食店が混ぜこぜになった空間を抜けて、麻生はとうとう駅のロータリーにたどり着いた。息を整え、目を細めてホームを捉える。階段とベンチの中間、いつもの場所にアヤセがいた。麻生は間に合っただけなんだからと自分に言い聞かせ、空いた手で胸を押さえながらホームへ走った。心臓が見た事もない運動で何かを破裂させていて、気を抜いた途端に口から爆風が飛び出してきそうだった。
 外周の半分を回った時、電車がホームに滑り込んで来た。白地に黒のストライプを入れた車両は巨大な鳥みたいなブレーキ音を鳴らして定位置に止まった。麻生は急いで定期入れを取り上げて改札の駅員に向けてかざし、ホームへの地下道を走る。駅員はすれ違いざまに間に合わないと告げる。
 階段に差し掛かる手前で列車は出発した。
 車輪がレールを渡る音を聞きながら麻生は階段に足をかけた。ほんの数秒前まで満ちていた力は電車と共にどこかへ去ってしまっていた。自分の身体を一歩持ち上げることさえ苦痛で、鞄は重くて堅苦しかった。
 それでもやっとの思いで階段を上がり切り、辺りを見回す。列車が出た直後とあってホームに人気はなかった。皆ここから島の中心か本土へ出発する。朝に降りるような駅ではないのだ。
 ため息をついてベンチに目をやると、人影が残っていた。背が高く細身で麻生と同じ学校の制服。両手を膝に乗せて麻生の顔を眺めている。アヤセだった。麻生は神経を殴りつけられたようにびくりと身を震わせた。
 アヤセは何もおかしいことはないといった風に挨拶をした。何となく来るような気がしたから待っていた。次の電車は遅れているらしい。麻生は彼が何を言っているのかよく分からなかった。しかしとにかくアヤセとの待ち合わせに間に合った事だけは確かだった。約束を守ったと言えるかどうかは別として。
「あのね、アヤセくん」
「はい」
「何を言えばいいのか分からないんだけど」麻生はそこで言葉を止めた。
 アヤセは何も答えずただ視線を返す。その表情はいつもより心持ち穏やかで、麻生の心にすんなりと入り込んでくるものだった。麻生の混乱は徐々に解きほぐされ、言葉は一つずつ組み上がって行った。
「あのね、アヤセくん」麻生は再び口を開く。
「私ね」
「うん」
「信号無視しちゃった」


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