朝焼け

 縞模様のカーテンを開けると七時半の空が赤のグラデーションを描いていた。朝焼けだ。ナツメはつぶやいて頭まで布団をかぶり直した。みんな吹き飛んじゃえばいい。
 ナツメは朝焼けが嫌いだった。否、大嫌いだった。あの朝焼けを見る度に心を守っている殻を全てはがされたような、とてつもなく頼りない気分にさせられた。そしてそんな時は必ずと言っていいほど思い出したくもないもの達が喉の奥から頭に流れ込んで来るのだ。不治の病、死、自分を削るように接するユウ、未来、家族。一月に一度の割合で現れるあの不吉な怪物は、考えたくない事を最低のブレンドで呼び起こしてくれる。
 扉がノックと同時に開いてユウが入ってきた。いつもなら制服に着替えているところだが、今日はパジャマ姿のままである。ユウはうずくまるナツメを見ると、驚いた様子もなく薄暗いベッドの脇にしゃがみ込んだ。
「電話しておいたから。今日は休むって」
「いいよ。行く」布団の中からナツメは答える。声に張りはなく、口調もどこか歯切れが悪い。
 ユウは頭と思われる辺りにそっと手を置いた。盛り上がった布団がかすかに震えた。
「大丈夫だから寝てなよ。雨戸も閉めておくし。僕も休むって言っちゃったから、ゆっくり寝坊しよう」
「手」とナツメ。
「手?」
 右手が布団の中から伸びて、見えないものをつかむようにぱたぱたと握られる。
「寝るから握ってて」
 ユウは何も言わずに両手でナツメの右手を包んだ。掛け布団が肩まで下ろされ、足がまっすぐ伸ばされる。乱れた髪の奥に見える表情は閉ざされた門のように固い。ナツメは左の袖で髪ごと両目を拭った。白目は薄紅がかっていて、目尻には涙の跡があった。
 ナツメはそっぽを向いたり天井を見つめたりしていいたものの、十分もしないうちに寝息を立て始めた。カーテンの隙間から色濃い光が差し込んで来る。そこから見える空は、どこかへ行ってしまいそうな赤に大半を覆われている。薄雲は朝日の代弁者として頭上の大半を埋め尽くし、辛うじて顔を覗かせる水色の空気をも飲み込む勢いである。
 いつからこんな色になったのだろう。ユウは思った。昔の朝焼けは黄金色や橙で、本当に赤く焼ける事なんてほとんどなかったらしい。それがいつの間にか悲しさの比喩みたいなものになってしまった。そもそも朝焼けはこんなに遅い時間まで続かないはずなのに。何が悪かったのだろう。
 ナツメの胸が規則正しく揺れているのを確認すると、ユウは一日の予定を反芻した。まず朝食の準備はしておかないといけない。それから、晴れているんだから洗濯物も干しておこう。燃えるゴミを出して、週末までの宿題を片付けてしまって、午後は空けた方がいい。ナツメが何を言うかわからないから。よし。
 立ち上がろうとして手を離すと、ナツメの右手が素早く動いてユウの手首をつかまえた。
「ちょっと」
 ユウはしまったという表情を隠しつつ再びナツメの手を握る。

 ニュースでは朝焼けと引きこもりと犯罪の関係をさも深刻そうに語っている。パネルには犯罪や不登校の件数が折れ線グラフで示され、所々に強調の点が書き込まれて行く。ユウはノートから視線を外して評論家の言葉に耳を傾けた。人間の神経は元々あのようなものに対して不快感を覚えるものであります。こういった場合は周囲のケアが必要であります。
 誰も根本的な問題には手をつけまいとしている。ユウはココアに手を伸ばしながら思った。
 ドアノブの回る音がして、パジャマ姿のナツメが寝室から出て来た。眠りが浅かったのか、目の周りに隈ができている。髪は乱れ、所々からまっているようだ。ナツメはユウの向かいに座るや否や一つあくびをして、それから両手で顔を覆った。ユウは黙って大ぶりのマグカップを差し出した。かすかに立ち上る湯気がナツメにココアの香りを伝えた。
 ナツメは無表情に三口ほど飲んでからほっとため息をつき、見上げるように背筋を伸ばした。朝の絶望的な表情は消えていた。
「朝ご飯食べたい」ナツメはやっとの事で口を開く。
「僕は食べちゃった。何がいい?」
「作ってくれるの? ラッキー。言ってみるもんだね」
「仕方ないじゃないか」
「まあね。まだホットケーキあった? あったら焼いて。無かったら何でもいいよ」
 ユウは冷蔵庫からホットケーキミックスを取り出して調理にかかった。ナツメは大事そうにマグカップを抱えながら横目でテレビを見た。丁度自殺率の話をしているところだ。
「朝っぱらから暗い話」
「もう朝じゃないよ。十時過ぎ」
「いいじゃん。起きたら朝だもん」ナツメは得意そうに切り返した。それからユウの背中に視線を戻す。
「今日の四時間目って何だっけ。政経?」
「うん。でも休むって西村先生に言っておいたから大丈夫」
「センリちゃん怒ってた?」
「別に怒ってなかったよ。いつもの事だし。そう呼ばれる方が嫌なんじゃないかな」
「わたしとセンリちゃんの仲をなめちゃ駄目よ」ナツメは自信満々に答える。
「ねえ、四時間目から行く。朝焼け終わったし。何かみんなに会いたいのよ、わたし。ちょうどセンリちゃんの授業だしさあ」
 ユウは心配そうな表情で振り返った。「本当に大丈夫かな」
「任せてよ」
「わかったよ」ユウはそう言ってボウルの中身をフライパンに流し込んだ。
 優しく溶けるような音がガス台から部屋中へ広がった。ナツメは何も言わずにテレビを見る。自殺した高校生の家族へのインタビュー映像が流れている。父親は神妙そうな顔で当時を振り返り、母親は耐えきれずにこぼれた涙を何度も拭いていた。全員が自分ではない何かに狂わされたような口ぶりだった。
 ナツメが鬱陶しそうに電源を切ると、部屋は再びホットケーキの音に満たされた。ユウは器用に生地をひっくり返し、焼き加減を確認した。それから何の模様も無い皿とナイフとフォークを取り出して洗い場の脇に揃える。生地は初秋を思わせるきつね色に変わり、かすかに甘みを帯びた香りがユウの鼻孔をくすぐった。
「ユウ、わたし自殺なんかしないから」ナツメが静かに言った。


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