閃光

 捻じ曲がった音が二、三度壁を叩くと、ホールは予感に満ちた沈黙に支配された。薄暗いステージに立つ四人が計ったように動きを止める。マスク姿のギターはピックを持った腕を弛緩させ、ドラムはペダルに足を置き直す。わずかに明滅するスポットライトの光だけが空間に動きを与えていた。
 ややあってボーカルが神妙な態度でマイクに手を添え、それと呼応するように客の一人が甲高い声でマスク男の名前を叫んだ。No.4!
 彼は垂れ下がっていた手を再び弦に戻す。再び停止。一瞬の間を置いて四人のシルエットがかすかに揺れ、音楽が始まった。
 張り詰めた弦がチェーンソーよろしく震えるうなり声を上げ、虚空を切り裂いて会場を一気に加速させる。彼の動きは早くもトップギアに入っていて、口元からは今にも叫び声が放たれそうな勢いだ。その裏側からはベースとドラムがやけに淡々とした低音を響かせる。逆光に縁取られた身体はほとんど動きを見せず、音色と相まって職人的な雰囲気をかもし出す。
 数十秒。客の期待はステージの中央に吸い寄せられる。ボーカルは三人の仕事を確かめるように一旦目を閉じ、そして腹の奥底から引きずり出してきたような声を轟音に乗せて吐き出した。
 歌が始まると同時にユウは喉元を叩いてマインドホンのスイッチを入れ、数秒置いて口を開いた。
「始まったよ」

 耳の奥底で何かが震えたかと思うとサイケデリックな着信メロディが鳴り出した。妙にうねったキーボードの主旋律に筋肉でも震わせたようなベースライン。Must,Must,Mustと抑揚のない声が繰り返す。
 ナツメはしばらく曲に聴き入ってから、思い出したように耳の裏を指で叩いた。すると曲は一旦消え、代わって殺気立った轟音が飛び込んできた。思わず顔をしかめて同じ箇所を軽く撫でる。音量が不快さを感じない程度まで下がる。ナツメは小さく息を吐いて生演奏に混じる言葉を聞き取ると、意外そうな返事をした。
「あ、もう?」
 目の前ではシンプルなオブジェを思わせる金属の円錐が月光に縁取られ立ち尽くしている。宙空を指す先端は縫い針を思わせる鋭さだが、足元は人一人がすっぽり収まるほど広い。屋上の丁度中心に据え付けられたそれはアンテナとも空への挑戦ともつかない抽象的な雰囲気を持ち、ナツメの視線を釘付けにして離さない。
「時間通りじゃん。絶対押すと思ってたのに」虚空に向かって言葉を放り投げる。それらは散在する闇に吸い込まれて消え、残りは電波に形を変えて海を挟んだライブハウスへ届けられた。
 ナツメは大口を開けて身体を倒し、後方の風景に無感動な視線を送った。
 道路を隔てた向こう側にもこちらと同じ高さのビルが均一に立ち並んでいる。腰掛けている塀を超えると遥か下方の道路まで何もない空間が続く。建物達が作り上げた谷はその半分以上が澄んだ影に埋め尽くされ、底はほとんど見通せない。壮大なプラネタリウムのように広がる空から月と幾つかの星が投げかけてくる光を除けば街に灯りはない。夏の騒々しさを微塵も感じさせない夜だ。
「これ新曲?何かギター、えらい事になってんだけど」
 ナツメの問いかけがコンクリートに染み込んで消えた。

「新曲みたい。今度アルバム出すって言ってたから、そこからじゃない?」
 ユウが発するか細い声は、唇の間を通り抜けるや音の奔流に飲み込まれて行く。十メートル四方ほどの低い空間は既にステージ上で荒れ狂う怪物にコントロールされているようだ。
「うん、単独の。コンピレーションとは違うやつ」ユウは視線を動かさないまま続ける。聴覚を二つに分割して片方を視覚、もう一方は左脳と結びつける。
 一曲目が佳境に入り、ギターの動きが激しくなる。ボーカルの額から汗がしたたり始めて顔に描かれた紋様を更に妖しく彩って行く。あれも表現の一部なんだろうか。ユウがぼやけた思考を浮かべるのと同時にギターが衝動的な跳躍を見せ、片膝をついて着地した。ベースは相変わらず屋台骨よろしく淡々と低音を刻む。
 ひときわ甲高い声を観客に叩き付けるとボーカルはマイクを持ったままうつむき、自らも機械音の流れに身をゆだねる。一つの作品が完了したのだ。

 ナツメの外側は風声一つない静寂。マインドホンが届ける音は彼女の脳に直接響き、決して現実に漏らされることはない。飾り気のないピアスのように耳の裏側に取り付けられたそれはあくまで神経にのみライブハウスの喧噪を伝えていた。
「や、何かすごいじゃんキュベレイ。ロックンローール。一気に開けちゃった感じ」
 星の手前で小さく閃光が弾けた。ナツメはその変化を見逃さない。お、と小さく声を上げて大きな目を鋭く細める。
「何でもない。まだ電気ついてないんだよこっち。うん、でももうすぐ来ると思う。多分ライブ終わりには間に合わないかなあ」
 再び閃光。今度は二つ、先ほどより大きく。ナツメは目の前の円錐を見上げ、それから立ち上がって辺りのビルを眺め回した。一つの図面から量産されたようなビル群は光沢のある壁面と屋上を持ち、鏡で出来た箱のようにも見える。数棟おきに据え付けられている円錐の大きさだけがそれぞれの違いを主張しているようだ。
「駅で待っててよね」
 ナツメの声は閃光の爆ぜるゆらめきのような音と共に電気信号へと置き換えられた。

 三曲目が終わって照明がゆっくり落とされた。キュベレイの四人は大きく息を吐いて顔の汗を拭き、あるいはペットボトルから吹き飛んだ水分を補給した。ドラムの表情からは開始時の緊張が消えていない。インターバルの後について思案するような目でスティックを睨んでいる。
「まだ慣れてないみたい」ユウは更に声を細めた。MCの邪魔になってはいけない。「まだ始めて一年くらいらしいし、仕方ないんじゃないかな。僕は音楽しないからよく分からないけど。きっと考えちゃうんだよ」
 ボーカルが夏に似合わぬ分厚いコートを重苦しそうに脱ぎ、ステージの袖へ放り投げた。苦々しそうな口調でコートについて一言語り、熱気に敗北宣言を出した。観客達がためらいがちに失笑をもらし、ユウも小さく吹き出した。
「『夏をナメてた』って」
 一通りの挨拶を終えるとボーカルは再びマイクを構えた。ギターはマスクを脱ぎつつペダルをいくつか踏み、ベースと揃って体勢を整えた。
「うん、面白いよね。武器だよ」
 ユウがそうつぶやくのとほぼ同時に攻撃的なリフが弾き出された。

 夜空のあちらこちらで間断なく、火花を散らすように閃光が走っていた。薄黄色がかったそれらは月に被さったかと思えば星々の間を縫い、時にはナツメに降り掛かりそうな低空にまで及ぶ。やがて空の数カ所で光が凝縮しうごめくようになった。
「来る来る。ユウも耳塞いどいた方がいいよ!」
 サイレンとも駆動音ともつかない低音があちこちから発した。空襲警報! ナツメは心の中で叫んだ。空から奴らが攻めてきます! 警告めいた響きはなおも混乱した夜空に広がり続ける。
「あー、駄目か。ライブで耳はやばいよね」心持ち張りつめた声で笑う。
 と、響きがやんで世界が無音になる。ナツメの両手が力いっぱい両耳に蓋をする。そして全ての円錐に閃光が落ちて来た。
 ナツメはまばゆさに負けようとする神経を無理矢理抑えて目を細く開き、眼前の建造物をしっかりを見据える。光は雷のように不規則な軌道を描きつつ円錐に着地した。円錐は避雷針よろしく澄んだ光を捕えて離さない。その頂点と空を結ぶ線は前後左右不規則に振れ続け、まるで二つの存在が一心不乱にダンスを繰り広げているようにも見える。
 あちらこちらの屋上でも同じように光が円錐と手を繋ぎ踊っていた。ナツメは再びぐるりと周囲を見渡す。雲一つない夜空から幾筋もの雷光。見慣れたものとはいえ、自然の匂いのかけら一つない光景は彼女の肌を泡立たせ複雑な想いを呼び起こす。これは、これでいいの?
 やっと目が明るさに慣れたころ唐突に光の攻勢が唐突に止み、それを合図に街が戻って来た。地上を埋め尽くす無数の機械に動力が伝えられ、ピアノの鍵盤を一気になぞるように明かりがともされて行く。表情のないビルが作り出す谷間は瞬く間に安全と人工の昼に満たされた。闇の中では影の一部に過ぎなかった街路樹も今やそのくっきりとした色彩を見せつけ、今度は自らが道のタイルに影を形作っている。
 再度低い響きがどこからともなく聞え、次いで機械的な女性の声が台本を読むように告げた。電気は戻りました。外出は可能ですが、夜半まで外気空調は稼働しません。重力制御は稼働しています。皆さん、電気は大切に使いましょうね。
「終わったー。エレクトロニ子ちゃん来たよ」

「エレクトロニカちゃん?」ユウは要領を得ない様子で聞き返した。
 ライブは中盤を過ぎ、バラード系の曲が演奏されていた。ボーカルは胸の内を確かめるように言葉を一つ一つ発して行く。バックは表情を抑え、歌い上げる彼を静かに援護する。
「子。カじゃなくて。エレクトロニカじゃないんだ。……うんまあそのままだけど、何でもかんでも子ってのもさ」
 と、バラードが終わるや否や場が一気に沸騰した。ユウは軽く身を震わせて意識をステージに戻す。いよいよ佳境に向かう突進が始まったのだ。最初は堅さの見えたドラムも完全にライブの流れをつかんでいる。ベースは変わらず職人気質の音を鳴らし、歌声は鼓膜を引き裂かんばかりの迫力。ギターが肩の高さに掲げられ、立ち並ぶ観客に向かって次々に向けられる。目を大きく見開きギターを支える彼は、さながら獲物の頭を撃ち抜く狙撃手のようだ。
「No.4のあれ、来たよ」
 そう言うとほぼ同時に首を振り向けてきたスポットライトに頭を撃ち抜かれ、ユウは思わず目をつぶった。

「あ、これでしょこれ」ナツメは見えないライフルで月に狙いをつけた。
「やっぱこれだよね」
 遥か下方の道路にはぽつぽつと人が出始めていた。空中にはいつの間にやらCM用のバルーンが漂い、誰かのニューシングルを褒めちぎっている。クラゲの足を切り取って代わりに四面モニターを括り付けたような飛行体はかすかな上下動を繰り返しながら空中に巨大な円を描き、地上にチャートミュージックの無難さを刷り込んでゆく。地上は目に余る光、上空は処理しきれない情報。誰もその事に疑問すら抱いていない。
 足下からわき上がる光に照らされながら、ナツメはため息をついた。
「じゃ、これから帰るから。待っててね」
 そして耳の後ろを二度叩き、聴覚を現実に引き戻す。
 塀の上に飛び乗ると同時にバルーンが頭上を通り過ぎた。かすかな風圧が髪を乱す。ナツメは顔をしかめ、両手で髪をかきあげた。
 立ち並ぶビルは節電しているのかそうでないのか、すっかり正視出来ないほど強い白色に染まっている。眼下の道路も含めて意図的に影をなくしているようだ。滑らかな絶壁に挟まれたそこは、さながら行く先のない光の川。ナツメは飛行機から見下ろした街を思い出す。あの現実感の欠如した美しさが、この場に立っている今も感じ取れる。それに気付かず川底を歩いている人達も現実離れした存在なんじゃないだろうか。
 憑き物をはらうように首を振る。
「帰ろ」
 ナツメは一度だけ円錐を振り返り、階段を踏み出す気軽さで光の川へ飛び込んだ。


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