弾丸

 終わった世界の東京駅十六番ホームに、銀を基調としたシャープなフォルムの新幹線が入線してきた。なだらかに速度を緩め、ほとんど音もなく定位置に停まる。深呼吸をするように間を置いて、全てのドアを一斉に開放する。風が吐き出される音。その響きがホームを走り抜けると、彼は車内放送を繰り返した。終点、東京駅に到着いたしました。この列車は車内清掃後、博多行き、のぞみ二六二号となります。
 二十を超えるホームに人の姿はなかった。ただ無人の列車だけが発着を続けている。そこにいるべき乗客や乗務員は、世界の終わりとともに新たな世界へ消えていた。巨大なターミナル駅を行き来する音は無機質な残響のようなもので、それらは空気を強く震わせながらもある種の静寂を生み出していた。
 時間が来ると、車内清掃が行なわれなかったことなどおかまいなしに発車準備を開始する。全ては世界が動いていた頃セットされた手順。彼はいわば遺言書の指示を遂行する忠実な子孫だった。
 間もなく発車しますと構内放送が告げた。それと前後して、床を蹴る非金属的な音が階段の下から聞こえ始める。靴音は瞬く間にホーム中央へ広がり、終わった世界の一角を有機的に染める。そして、大きなビニール袋を大事そうに抱えた少女が息を弾ませ現れた。

 少女は年頃十六、七といったところか。服装はスリムなジーンズにパーカー、足下は黒のコンバースと、世界の終わりを感じさせない日常的なもの。髪は黒のストレートで、肩の辺りで揃えてある。大人しい顔立ちに大きな丸い目。その目に一杯の不安を浮かべながら、窓から車内を覗き込む。
「大阪は通るんだ」少女は食べ物の詰まった袋を抱え直した。吐く息がわずかに白く色付き、そしてすぐ霧散した。
「大丈夫かな。誰もいないのに大阪止まるのかな」
 出発ベルが鳴り始めた。少女はそれに反応してビクリと体を震わせる。駆け込み乗車はおやめ下さい。お見送りの方は扉の前を離れてお見送り下さい。
「見送りなんかいないよ!」誰にともなく大声で叫び、手近のドアから思いきって車内に駆け込む。ややあって、新幹線のぞみ二六二号は博多へ向け発車した。

 誰もいない新幹線の旅は快適なんだと、背もたれを倒しながら少女は思った。断りもなくリクライニング全開で来る前の客も、座席を反転させて宴会を始める馬鹿な中年もいない。うるさい子供を放っておく母親だっていない。おまけにのぞみに乗るのは初めてだった。本当にひかりよりも全然速いのか、実は大したことはないのか。そんな事を考えていると、少しずつ楽しい気持ちがわいてきた。あの子もいたら喜ぶだろうな。少女の頭に友達の名前が浮かぶ。
「だめ」彼女は反射的に首を振った。
 新幹線は品川駅を通過した。まだ新しいホームが、大きなあくびをしている間に置き去りにされる。次いでアナウンスが流れた。
 品川はおろか新横浜まで通過すると知って、少女は驚きつつ自分の経験不足に赤くなった。目的地の新大阪まで、止まるのは名古屋と京都だけ。静岡辺りに止まらなかったかしら。何やら恥ずかしくなって頭をかく。
「まあいいや。大阪は止まるもんね」
 それからしばらく、少女は力を抜いて外の景色を眺めた。新横浜を抜け、小田原のトンネルを何度もくぐり、静岡を横切る。どの町も、昼間だというのに眠っているような静けさをたたえていた。こういうのを平穏と呼ぶのかもしれない。そう思うのとほぼ同時に、今度は自分の頭を引っ叩いた。
 浜名湖に差し掛かった辺りで小腹が空いた少女は、駅の売店から万引きしてきた駄菓子やらお茶を開けた。弁当類は傷んでいそうなのでやめたのだ。終わった世界で弁当を管理する人間などいないのだから。
 店員がいないのに万引きって言うんだろうか。どうでも良い事を考えながらスナック菓子を口に放り込む。「釜飯食べたかったな」と、寂しげにつぶやきながら。

 適当な食事を終えてうとうとしていると、チャイムか音楽か分からないフレーズが天井から流れ、名古屋の手前だとやわらかな女性の声が告げた。弾かれたように飛び起き乗車口へ走り込む。もしかすると誰か乗ってくる人がいるかもしれないと、自分に強く言い聞かせて。
 新幹線は淀みない動作で長々としたホームに滑り込んだ。ドアが一斉に開き、モーターの駆動音で満たされた一帯に案内放送が響く。
 少女は血走るくらい目に力を入れ、上半身をホームに乗り出して周囲を見回した。しかし、誰の姿も見つけることはできなかった。空気までが死に絶えたような、絶望的に静かな空間。車内に人の気配が入ってくる感覚もない。発車ベルが残酷に鳴り渡り、新幹線は少女を内包したままゆっくりと名古屋駅を後方に追いやって行った。彼女はその間も必死の面持ちで人の姿を捜し続けたが、結果は変わらなかった。
 名古屋駅を出てからしばらくもしない内に、少女は再び座席から立ち上がり、人の姿を求めて全ての車両を歩き回った。トイレのドアも片っ端からノックした。もうどんな不細工でも、仕方ないから犯罪者でもいい。殴られたり犯されるのは絶対に嫌だけど、一人取り残されるよりはまだましかもしれない。
 結果は変わらなかった。

 新幹線は岐阜羽島を通り過ぎた。少女はどうでも良いといった様子で髪をいじりながら無表情に外の景色を眺めていた。
 既に初雪が降ったらしい。山肌を埋め尽くす広葉樹は、ヴェールをかけられたように白く輝いている。麓に散在する家々にも同様に、白い覆いがかぶされている。視界はさながら雪の天下だった。空を仰ぐ者は全て白く染め抜かれるのだ。
 もともと人気を感じさせない土地なんだろうけど、本当に人がいないと思うと全く別の景色に見えてくるんだな。少女は考え、窓際に肘をつく。すると、世界が終わった実感が徐々に、どうしようもなく湧いてきた。目の前を東京に向かう新幹線が遮り、それが去ると長いトンネルが来た。窓の向こうが濃い黒に染まる。誰もいない車両は、放り出された宇宙船のように感じられた。
「終わっちゃったんだ」彼女はペットボトルに残った緑茶を一気に飲み干し、小さくため息をついた。不意に涙がこぼれた。
 一度始まってしまえば止めるものは何もない。彼女は一人きりなのをいいことに、声を上げて泣いた。いくら泣いても終わりに辿り着くことはないように思えた。時々ティッシュで思いきり鼻をかみ、売店から取ってきた饅頭をほおばった。それからまた、脇目もふらず泣き続けた。

 京都が近付いてきた辺りで、少女はとうとう泣くのをやめた。放送を聞きながら鼻をかみ、ハンドタオルで目元を拭う。白目はすっかり充血していたし瞼も腫れていたが、怯えの色は奥に引っ込んでいた。最後のコーラをあおってむせ、さんざん咳をして鼻をかみ、また目をぬぐい、そして腹を抱え笑う。
 天井を見上げると、蛍光灯の明かりが中央を走っていた。丸みを帯びた車体はやわらかなトンネルのようで、その中をまっすぐ貫く光は自分を照らす道しるべに見えた。少女はそんな事を考えた自分にまた赤くなりながらも、彼女を乗せた銀色の彼に向かって声を張り上げた。ありがとう!
 京都駅に入っても、もうホームを隅から隅まで探るようなことはしなかった。鼻水まみれのティッシュやら菓子袋をまとめると、落ち着いた足取りでゴミ箱に向かう。その途中で更に二度、鼻をかんだ。ゴミ箱の蓋を押し開けつつ、誰がこのゴミを始末するのかと一瞬考える。
 まあいいやと少女はつぶやき、分別もせずにゴミを全部放り投げた。それからドアに寄り掛かって外の様子を見る。大阪の市街地に入っていた。相変わらず人気はないが、電車は普通に動いている。
 三度チャイムのような音楽が鳴って、新大阪のホームが前方に見えてきた。少女は大きく伸びをした。ポケットから財布を引っ張りだして切符を確認しようとし、すぐにしまう。そういえば切符なんか買ってなかった。ピーピーがなり立てる自動改札を乗り越えたことを思い出し、彼女はくすりと笑った。
 銀色の新幹線は名古屋に着いた時と同じく、無表情に淡々と新大阪駅二十番ホームへ滑り込む。一呼吸置いて、空気の抜けるような音を立てながら一斉にドアが開いた。
 少女は泣き腫らした両目をパーカーの袖でもう一度拭うと、迷いのない調子で故郷へと足を踏み出した。一度だけ、窓の辺りをポンと軽く叩いてやって。間もなく発車ベルが鳴り終わる。彼は彼女が降りたことなど気付かなかったように、再び感情もないまま走り出してゆく。


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