陸橋

 陸橋は十メートルほどの高さを、傾きかけた日の光に晒されながら遥か彼方の土手に向かって伸びている。眼下には穂の落ちかけたススキ達。原っぱを埋め尽くすそれらは、時折吹く風に身を歪ませながら冬を待っている。彼らの間に橋脚を差し込んで立つ陸橋はさながら海上道路みたいだ。もう使われなくなって久しい車線には足がはまってしまいそうなヒビがいくつも入っている。下から見上げれば橋脚の傷みも激しいだろう。無数に入った亀裂を想像すると、すぐにでもここから逃げ出したい気持ちにかられる。
 僕は五月に視線を戻す。
 五月は僕のちょっとした不安などおかまいなしにひょいひょいと歩を進めている。確か高所恐怖症だったはずだけど、リズミカルな足取りからはその気配さえ感じられない。
 その様子を後ろから眺めていて、別の不安がよぎった。もしかして、五月はあちら側まで行くつもりなんじゃないだろうか。そうだとしたら早めに止めないと。もう二十分は歩いているのに、振り返ればもと来た道の方が行く先よりまだ全然短い。本当に渡り切ってそれから戻って来るなんてしたら、それこそ日が暮れてしまいそうだ。
「ねえ、五月」
「なあに?」五月は手を後ろに組んだまま僕を振り返る。セミロングの髪が風に乗ってふわりと舞う。
「あっち岸まで行くつもりじゃないよね」
「まさか。もう引き返すよ」五月は笑い、分かってないといった様子でかぶりを振った。
「イズミは心配性だね。何も教えないとすぐ落ち着きなくなるんだから」
「だってさ、いきなりこんな場所に来るとは思わないじゃない」
「だったらやめとけばいいのにぃ」意地悪な口調だ。
「や、ほら、五月に誘われたら行くじゃない。とりあえずは」
 五月は珍しく驚いたような表情になり、それから照れくさそうに笑った。大きな口がきれいに弓を形作る。
「でもさ、そろそろ戻った方がいいよ。きっともうすぐ壊し始めるよ」
「そうねえ」五月はコートの袖をまくって腕時計を見た。余計な装飾のないシンプルな型。五月の雰囲気に良く合っている。「行こっか」
 僕達は、見納めということでここを訪れていた。老朽化と幹線道路の発達で使われなくなった陸橋は今日限りで全ての役目を終え、取り壊されることになっている。それに伴って地球を貫くエレベーターの建設が始まり、今はススキがたなびているこの一帯もあっという間に別世界になってしまうことだろう。
「イズミ、それ覚えてる?」五月が壁の欠けた部分を指差した。
 う、と僕は情けない声を返す。小学校に入ってすぐだったか、五月と遊んでいてぶつかった場所だ。何でだったかは忘れたけど、背中から勢い良く欠けた角にぶつかって、ひどく血が出たことを今でも覚えている。
「五月、あの時もやたら冷静だったよね。僕は痛くて大泣きしてたのに」
「そんなことないって。滅茶苦茶動転してたもん」そう言いながら、僕がぶつかった角を愛おしそうに触わる。泣きわめく僕をずっとなでてくれていた手つきが脳裏に浮かんだ。
 そう言えばあの時僕の傷に触れた手は小刻みに震えていたような気もするけど、今となってはよくわからない。少なくとも、今の五月から想像しにくいことは間違いない。
「ここも今日で最後かぁ」五月はしみじみとつぶやく。
 僕は何か答えようとしたけど、うまい言葉が出て来なくて再び口を閉じた。
 それからしばらく、僕達は黙って元来た道を辿った。時々強めの風が吹きつけて来る以外はさわやかな秋の終わりといった風情だった。雲は目がくらむような高さを、動いているのかどうか分からない程度のスピードで横切っている。ススキは身を寄せ合ってひっきりなしにさざ波みたいな音を立てる。五月が何の気なしにコートの襟元を直す。
「今、四時十分だよね」五月が唐突に言った。
 携帯を開けてみる。液晶画面は四時二十五分を表示していた。
「二十五分だよ」
 五月の動きが止まった。
「どうかしたの?」
「イズミ、それ十五分進めてない?」かすかに声が上ずっていた。
「進めても勝手に修正しちゃうみたい。すごいよね今の携帯って」
 五月は急いで腕時計を見直すと、僕の手を引ったくるようにつかんで駆け出した。
「待ってよ五月!」僕はでこぼこの地面につまづかないよう必死に走りながら、何とか声を絞り出した。
 五月は一瞬だけこちらを振り返り、更に走る速度を上げた。
「待ってたら死ぬかもしれないの!」
 訳が分からなかった。ここにいたら死ぬ? それじゃさっきまでの余裕は何だったんだろう。とにかく五月はそんな嘘をつくタイプじゃないから、僕は黙って走り続けるしかなかった。
 運動不足の僕は三分もしないうちにガス欠になって、着いて行くことすらおぼつかなくなった。五月は力の抜けかけた僕の手を血が止まるくらい強く握りながら全力疾走を続ける。普段なら倒れ込んででもこの苦しみから逃げ出す所だけど、さすがに命がかかっている(らしい)だけあって足が自動的に彼女の後を追い続ける。
「今日、ここが壊されるって言ったじゃない?」しばらくして、半ば息を切らしながら五月が言った。僕は既に答える気力もなくて、ぜいぜいと濁った音を返すだけだ。
 返事がないのを無視して五月は続ける。
「エレベーターの建設も始まるって話したよね。それって同時なの。エレベーターを造り始めると陸橋吹き飛ぶのよ」
 ますます訳が分からなかった。エレベーターを造ると陸橋がなくなるって何なんだ。
「どういう意味か、分からない! 具体的に、教えてよ!」息も絶え絶えに叫ぶ。
「エレベーターの穴を掘る機械が空から落ちて来て! 陸橋壊して地面に突き刺さるの!」
 頭のどこかが凍り付いて動かなくなった。

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