ボーリング

 足下のコンクリートが濃灰色に染まったかと思うと、世界に薄闇が降りて来た。僕は反射的に空を見上げる。太陽が分厚いカーテンに覆われるところだった。さっきまでは所々に浮いてるだけのちぎり取られたような塊だったのに、雲達は今や空の大半を傘下に収めている。女心と秋の空というものなんだろうか。
 五月から話を聞かされた時は気絶するかと思ったけど、ひたすら走るうちにショックにも慣れてきていた。危ない状況で気分が高揚しているのかもしれない。
「ねえ、五月」僕は幾分落ち着いた口調で話しかける。いい加減、息の切れ方も一定のリズムを手に入れたような気がする。
「こういうの、女心と秋の……」
 五月が勢い良くこちらを振り向いたので、僕の言葉は宙ぶらりんになった。
「イズミぃ」彼女は微笑んで言う。
「はい」
「余裕出て来たじゃない」
「そんなこと、ないよ。ものすごく、恐い。急がないと」わざとらしいくらい途切れ途切れな返答。
 五月は僕の反論を無視して続ける。
「それだけ余裕あるなら、スピード上げていい? それか、手ぇ離して一人で走れる?」
「うえぇ。どっちも無理だよ。嫌だ」
「どこまで本気なのよ」僕を見て呆れたように笑う五月。その視線が上にずれたかと思うと、一転して緊迫した表情が浮かんだ。「来た!」
 その言葉につられて後ろを見上げようとして、同時に五月がスピードを上げたので危うく転びそうになった。
「五月、危ないよぉ」
「ここにいた方が危ないでしょ!」
 もっともな話だけど仕方ないじゃないか。
 何とか体勢を立て直して再び首を向けると、黒い柱がひと際大きな雲の真ん中から突き出て来た。まだ相当な高さにあるはずなのにはっきり確認できるところを見ると、直径数メートルはある物なんだろう。十メートルくらいあるかもしれない。いや、もっとか。はっきりとは分からないけど、輪郭に凹凸があるように見える。螺旋状に溝が彫り込まれているんだろう。基礎工事でよく使われているボーリングマシンというやつだ。地球規模の工事でも同じような機械を使うんだね。
「五月っ」大きなひび割れを越えながら発した僕の声が、体と同じように飛び跳ねた。
「間に合うでしょ?」
「分からない。でもすごいねあれ。科学は何でもありっていう感じだよね」
 五月は横目で僕を見て、わずかに首を傾げた。口元が笑っているようにも見えた。
「時々、君がよく分からなくなるわ」
 巨大ボーリングマシンは雲を串刺しにしながらどんどん地上へ、陸橋へ迫っていた。先端はもう雲と地面の中間辺りまで来ているのに、後ろは全く途切れる様子がない。何故わざわざ空から落とすのかと思ったけど、あれだけ長いというなら納得も行く。
 秋ももうすぐ終わるというのに、僕達は汗まみれだ。元々汗っかきの僕は額から流れる汗が目を突かないよう常に拭っていなければならなかったし、TシャツはおろかYシャツまで体に貼り付くくらい濡れている。普段はあまり汗をかかない五月だって、手は湿っているしコートの中は汗で一杯に違いない。僕は汗を吸って五月の身体に貼り付いたセーラーブラウスを想像しようとして、すぐにそれをもみ消した。五月には言わないでおこう。向こう三ヶ月はネタにされるに違いないから。
 そんな事を考えているうちにやっと陸橋の終わりが見えてきた。けど、それでも土手まで軽く二百メートルはある。そして、後ろのボーリングマシンも目標到達へのカウントダウンを始められるくらいに近づいている。にも関わらずその全貌は明らかになっていなくて、それが頭の奥にある恐怖を一層かき立てた。
「間に合うかな」
 ぼそりとそうつぶやいた僕を見て五月は不敵に笑い、路肩を自信ありげに指差した。盛り上がった瓦礫の向こうに非常階段の印が見えた。
「もっと早く気付けば良かった!」五月は勢い良く言い放つや僕の手をつかんだまま大きな瓦礫を軽く飛び越え、僕はついて行けずに脛を引っ掛けた。
 あちこち壊れた階段をやっと降り切った時には、もうボーリングマシンの先端が地面に触れるところだった。そして末端はまだ雲の向こうにあった。瓦礫の角にぶつけた辺りが火傷みたいに痛む。
「離れないと」僕が言い、五月が頷いたところで振動が走った。
 まず、足場が崩れたようなガクンという揺れが来て、その後かすかな衝撃波が駆け抜けた。僕は庇おうとしたのか恐かっただけなのか、ほとんど無意識に五月の身体にしがみついた。
 最初の揺れが過ぎ去ってしまった後は、どこか遠くの地震を思わせる振動がしばらく続いた。ボーリングマシンは陸橋の丁度中心に着地したみたいだった。中心部は舞い上がった土に隠れて見えなかったけど、土煙のすぐ手前までが完全に崩落していた。今は一応無事な部分も、振動の影響で徐々に崩れ始めている。五月が階段を見つけていなかったらと思うと嫌な汗が出る。
「あのさ」五月が珍しく遠慮がちに言った。
「守ってくれたのか恐かったのか、どっち」
 気が付くと、僕は腰に腕を回した格好で彼女の上に寄りかかっていた。顔がちょうど胸の辺りに押し付けられて、コート越しに感触が伝わってくる。
「何か違うものも感じちゃうんだけど、その格好」
 慌てて五月から離れ、取り繕うように立ち上がって裾のほこりを払う。五月はクククとおかしそうに笑った。
 ボーリングマシンは今や原っぱに突き立てられた機械の塔だった。等間隔に備え付けられたサーチライトは交互に赤い光を放ち、本体の回転に合わせて灯台よろしく空と地上を照らしている。段々と弱くなりつつはあるものの、地面を掘る震動は僕達の場所まで伝わり続けて陸橋からコンクリートの欠片を降らせている。
「ねえねえ、イズミィ」五月が甘ったるい声を出した。
「ちょっと行ってみる?」僕は先手を打つ。
「ん、今日はやめとく」
「あれ?」思わず声に出てしまった。
「あれって何。それじゃわたしが無茶ばっか言ってるみたいじゃない」
「そんなことないけどさ。行きたがるかと思ってた」
「うん、ちょっと行きたい。でも、とりあえずここから見てる方が良さそうなんだ。だからちょっとここにいようって言おうと思ったのにあれって何」
「いやその、ごめんね」
「分かったら、はい」
 そう言いながら差し出された手を取り、反動をつけて引き起こす。五月の身体は思った以上に軽くて、危うく胸元まで引き寄せてしまうところだった。
「けっこう力あるじゃん」
 五月がわざとらしく感心してみせたので、何だか恥ずかしくなってボーリングマシンに視線を移した。長大な重機は赤みを失いつつある空を真っ二つに割きながら回り続けている。あまりにスケールが大きくて、近くにある割に現実味が感じられない。見ていると僕まで現実から浮いてしまいそうな気がした。
 五月はどうして僕と一緒にあれを見に来たんだろう。
「五月。あのさ、実はボーリングマシンとか好き?」
「別にぃ。メカフェチじゃないもん。あ、何でわざわざ来たとか思ってるでしょ」
「うん、大体そう」
「大体?」
「えーっと、大体じゃなくてそう」
 五月はふうん、と分かったような仕草をした。
「そういうことですか。いいけどね。陸橋が最後だっていうのと、あとわたし、エレベーターの方にも興味あったんだ。あ、メカフェチってことじゃなくてね。地下突き抜けてあっち側まで行くのって今までにないじゃん。普通のエレベーターはもういいけど、そういうのは見てみたかったの。だったらせっかくだから造るところからって思うじゃん」
 そう言って地球の裏側を指差す。
「普通かあ。それじゃ、完成したらまた来るつもりなんだ」
「そりゃもちろん。君も行くでしょ」
 僕はダイレクトパスよろしく反射的に頷いた。地球エレベーターなんて新しすぎて少し恐いけど、五月と一緒なら楽しめるような気がする。
 それにしても普通のエレベーターはもういいって、どういう意味だろう。やっぱり高所恐怖症は昔のままなのかな。五月と一緒にエレベーターに乗ったのは一度だけだし、その時事故とかがあった覚えはない。それか、他に何かあったのかもしれない。でも陸橋の上にいた時は別に怖がってた感じもなかったみたいだし、実際にどうなのかは聞いてみないことには分からない。けれど今はそんな話をする場面じゃないように思えたから、僕は何も言わずに五月と同じ方向を眺めておく。そのうち聞いてみればいい。
 そんなことを考えていたら、真っ赤な光がもったいぶったスピードでススキの上を走り抜けた。

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