セントラルライン

 息が整ってハンドタオルで顔や首筋の汗を拭いて、そびえ立つボーリングマシンをやっと落ち着いて見られるようになってから五分も経たない内にそれは起こった。
 身体のあちこちを欠きながらもそれなりの威厳をもって僕達を見下ろす陸橋。その橋脚と地面の境目から薄黄色の光が発したのだ。
 それは薄く引き延ばされたサテンのように柔らかなつやを帯びた光だった。光はまず橋脚の台座よろしく地面を覆うような角度で放たれ、それから徐々に空中へ広がった。そして、間を置かずに隣の橋脚からも同じように光が。どうやら手前の土手側から順に来ているみたいだ。
 光の浸食は、あんぐりと口を開けた僕達を軽く置き去りにしたまま段々と加速してゆく。その光景は舞台へ降りてゆく緞帳を思い起こさせた。上下は逆だけれど。遠くから見たらなめらかで綺麗なんだろうなと思いつつ、僕は五月の手を引いて少しずつ後ろに下がらせる。嫌な予感がした。見慣れないものが目の前に現れたらいつだって嫌な予感はするのだけど、今回のはまた違ったやつ。
「もっと近づいてみないの?」
 大当たりだ。
「や、その、もうちょっと下がった方が綺麗に見えるんじゃないかと思って」
「嘘だよね」
 五月って本当はひどい人なんじゃないだろうか。折に触れてそんな考えが頭をよぎる。
 小学校の頃、誰にも見つからないように学校菜園のプチトマトを盗み食いしたことを思い出した。その時も何故か五月にだけはばれてしまって、あとで散々いじられた。今と同じように、笑いながら「嘘だよね」って言われたのもよく覚えてる。それから先、何かをごまかそうとする度にこの一言で全部吹き飛ばされて、いつの間にか僕は五月の手が届かない所に行けなくなっていた。高校生になった今でも。別にどこかへ行くつもりはないからいいんだけど、先々は不安だ。
 余計な思考を巡らせているうちに、光は既に全ての橋脚を覆い尽くしていた。相変わらず煙のせいでボーリングマシンの向こう側は見えないけど、多分こっちと同じく光のベールに包まれているはず。そうでなかったら筋が通らない。
 光が突然強くなった。眩しさで視界がきかなくなってしまうくらい鮮明になって、反応する間も与えずに夕方の世界を即席の昼へと引きずり込む。それでも両手で顔を守りつつ必死に目を開けると、橋桁が宙に浮いていた。いや、光に支えられて宙に浮いているように見えた。瑞々しい光線は隙間すらないくらいに広がって、橋脚を完全に隠し切ってしまっていた。
「下がって良かったよね。ね」
 僕の声は目の前の光景につられて普段より大きくなっていた。
「うっそだあ」五月もまた大声で楽しそうに、歌うような調子で答える。
 今や城壁のように分厚く層を成した薄黄色の光線は、やがて橋桁をも飲み込み始めた。主桁からコンクリートの床板へ、ゆっくりと、確実な速度で腕先を伸ばして行く。それがあまりにもスローペースな上に淀みがなかったので、僕は橋桁が沈んでいるのか光が勢力範囲を広げているのかよくわからなくなった。それを思わず口に出すと、今はどっちでもいいじゃないと五月が言った。何の意思も込められていない虚ろな言葉。
「五月はすごいよ」
「何言ってるのかよくわかんないよ。私、そんな頭良くないもの。難しい事とか言えない。イズミみたいにたくさん考えられないだけだよ」
「そうなのかな」
「納得しなくていいのよ、ちょっと悔しいから。ねえ、全部見えなくなったけど、あの光消えたらどうなってると思う?」
「陸橋が綺麗になってるとか」
 五月は突然、僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「イズミくん、もしかして疲れてる? 大丈夫? 少し寝た方がいいんじゃない?」
「何だよう」
「取り壊しって言ったの忘れちゃった? 君って何か色々抜けてるんだから。まあそれがいいってこともあるんだけどさ。でね、きっとさ、あの光が消えたら陸橋も消えてなくなってるよ。絶対そう」
 僕は小さく頷くのが精一杯だった。頬が熱くなって首筋に汗が滲む。五月の前では間違ってない事なんか何一つ言えない気がした。
 五月が僕の頭を優しく叩く。
「ほらほら、見て」
 光が晴れてきた。橋は、五月の言った通り消えてなくなっていた。まるで大掛かりなマジックだ。イリュージョンっていうのか。派手な衣装のイリュージョニストが大股開きでポーズを決めると、巨大な暗幕がさっと落ちて建物が消滅する。この間もどこかのテレビ局が中継していた、あれにそっくりだった。違うのは暗幕が光で、落ちる速度がイリュージョンよりずっと遅いこと。まるで陸橋を頭からじっくり味わうように、光の壁は背を縮めてゆく。あとには石ころ一つ残さずに。
 数分たっただろうか。光は元通り橋脚の根元に、いや、根元だった所に吸い込まれ、そして疾風のように視界を一気に駆け抜けると跡形もなく消え去った。一瞬だけできた光の道。
 五月が大きく息をついた。日はもう大分傾いて、土手の奥に連なった屋根に半ば姿を隠していた。土手と土手の間には僕達とあのボーリングマシン以外、何一つ動く物がないみたいだった。時折思い出したように北風がやってきて背の高い雑草達を騒がせ、僕達は二人して身をすくませた。ボーリングマシンはかすかな振動を絶え間なく伝えていた。
「戻ろっか」と五月。
「戻る?」
「そう、ススキさんどかして土手の方に帰るの。それともまだいたい? もうちょっとならいいよ」
「や、戻るよ。何か寒くなってきたもんね」
「OK、それじゃ日が暮れないうちに行こうよ。陸橋の跡、上からも見たいでしょ? 早くしないと真っ暗になっちゃうよ」
 いやにあっさりしてると思ったら、そういうことだったのか。
「暗くなったら寒いし、イズミはきっと転んで怪我するもの。早く行こ」
 五月の声に急かされるように、元来た道を再び歩き出した。時間と共に暗さを増す野原はどうしても歩き辛く、僕はずっと足下に注意していなければならなかった。五月は相変わらず楽々と僕の前を行く。足の裏にセンサーでも付いているんじゃないだろうか。
「イズミ」五月が前を向いたまま話しかけて来た。「穴掘り機、あんまり大した事なかったよねえ」
 うまい答えが出て来なくて、僕は仕方なく沈黙を返した。大した事なかっただって?
「イズミ、聞いてる?」
「え、いや、うーん」やっとのことで声を絞り出す。
「だってさ、あれ一発で全部吹き飛ぶと思ってたんだよ私。もっと派手に爆発するとかあってもいいと思わない?」
「そしたら今ごろ僕達も木っ端微塵だと思う」
「そうかなあ。多分大丈夫だったんじゃないかしら。あ、ここ大きな石ね」
 僕はすんでの所で地面から突き出した石を飛び越えた。五月の歩くペースは相変わらず速くて、油断したらつまづくか置いて行かれてしまいそうだ。
 もう土手は目の前に迫っている。視界の端まで伸びた自然の坂は、夕暮れの影に覆われて黒い城壁みたいだ。陸橋から見下ろした時よりもずっと高く見える。
「高いなあ」何となしにつぶやいた。
「登れる?」
「うーん、多分」
「頑張れー。登らなかったら陸橋みたいになっちゃうかもしれないよ」
 背筋を何かが駆け上がった。そうだ。考えてみれば、あのまま陸橋にいたら一緒に消えていたかもしれない。何ていうか、紙一重で生き残ったような感覚。
「上に残ってたら、僕達も陸橋と一緒になっちゃってたかな」
「ん? そうかも。そう思うと良かったねえ、降りてきて。階段なかったら今ごろ私たち人柱かも」
「恐いこと言わないでよ。危なかったんだなもう」
「イズミくんは私と一緒に消えるの嫌かしら?」
 五月が軽い調子で軽くない事を言ってきたので、僕はまた言葉に詰まった。彼女は時々こんな爆弾を投げつけて来るけど、からかいなのか本気なのか分からなくて困る。
 とにかく話題をそらすことにした。
「そう言えば五月、何でボーリングマシンのこと知ってたの? 解体とかエレベーターは僕も知ってたけど、あれがいきなり来るなんて誰も話してなかったよ。ニュースでも」
「ああ、あれ? うちのお父さんの友達がエレベーター工事やる会社のお偉いさんと友達だったの。それで情報が入ってきたってわけ」
「国内の会社が工事するんだ」
「そりゃそうよ。エレベーター技術って今、うちらが世界一なんだよ。すごいでしょ」
「すごい」僕は感心して言った。
「でも、いきなり断りもなしにボーリングマシンが来るなんて恐いなあ。一応告知くらいして欲しいよね」
「うん。まあ私らは断りもなく陸橋に来ちゃったから人のこと言えないけど」
「私、ら?」
「あははー」五月は笑いつつ、背中越しに僕の頬をつねった。
 土手を上り切ると、太陽はほとんど屋根が形作る稜線の奥に沈んでいた。秋の夕暮れは本当に短い。もうすぐこの時間を楽しむ暇さえなくなって、夜ばかりの冬がやって来る。僕は毛羽立ったコートの襟元を直し、袖で額の汗を拭った。コートの生地にまで染み出して色を変えてしまうくらいの汗。こんなに運動したのはいつ以来だろう。
 坂から少し離れた所まで歩いたところで力尽きてしまい、その場にしゃがみ込んだ。もう一歩足りとも歩きたくない。時間をかけて息を整えてから陸橋の跡地に視線を投げる。
 と同時に、今日何度目か分からない驚きの声を上げた。反射的に五月の顔を見上げる。彼女もまた驚いて目を見開き、釘付けにされたような視線でそこを見ていた。
 ついさっきまで陸橋があった所は真新しい道になっていた。
 暗くてはっきりとは分からないけど、色は多分チャコールグレー。中心には途切れ途切れの白線がくっきりと引かれている。一見しただけで分かる、道路だ。しかもこれまで見た中で一番真っすぐな道路。まるで土手からボーリングマシンの中心へと迷いなく伸びる、野原の中心線みたいだった。最後に光が走ったのはこのためだったのか。
 時計が五時を指してどこからか童謡のメロディーが流れ出した。それに呼応するように、道の両脇で碧のランプが点滅を始める。土手から順に、同じ間隔で。飛行場の進路灯を思わせるそれらは真っ暗に近い野原を繰り返し駆け抜け、ボーリングマシンの赤いランプと相まって、一つのオブジェのように見えた。
「イズミ」五月が所在なげに言う。
 僕はギクリとした。こういう時は大抵何かある。
「そろそろ帰ろう」
「あれ?」
「だからあれって何よ。君、また私を誤解したね?」
「してないしてない! 賛成。帰ろう。ね」
「ふううん」五月はいぶかしげに僕を見る。「ジュースおごってくれる?」
「う。……分かったよう」
「イズミは弱いねえ」
 五月に見つからないようため息をついた。途端に五月が僕の顔を覗き込んだ。
「ちょっ!」
「来て良かった?」
 五月の目は打って変わって真剣そのものだ。
 僕は少し間を置いてから、何も言わず頷いた。
「ありがと。また付き合ってね」
 そう言って微笑む。
 僕は何だかいても立ってもいられなくなってボーリングマシンを見た。彼はさっきと変わらず、無関心そうに地球を掘り続けていた。

最後まで読んでくれてありがとう