ダミー

 土手の雑草が北風に揺れていた。先を行く五月は相変わらず軽やかな足取りで、両手をポケットに突っ込んだまま急な階段を一段飛ばしで上っている。一歩ごとに口元から白い息が舞い、かすかに浮いてはすぐに空へと消えて行く。
 僕は置いて行かれないよう急ぎ足で後を追う。五月は、時折僕を振り返っては楽しそうに手招きを繰り返した。
「スカート覗いちゃ駄目よ」

 穴掘りが終わったから見に行こうと五月が誘ってきたのは、陸橋が壊されてから三ヶ月近く経ったある日のこと。
 季節はもう掛け値なしの冬だった。冬至を過ぎて日は長くなり始めているものの、それと逆比例するように寒さは深さを増してきていた。家を出る時間にはガラスに霜が降り、土は凍りつき、露出した指先は無条件に赤く焼けた。空気は際限なく冷えて行くようで、本当に寒さが底をつく日が来るのか不安になるくらいだった。
 そんな閉塞感にも似た感覚で冬を過ごしていた僕は、五月の誘いにあまり乗り気じゃなかった。この寒いなか吹きさらしの原っぱを通り抜けて建設現場に行くだなんて。想像しただけで鳥肌が立ってしまいそうだ。
 その気持ちが表情にも現れていたのか、僕の反応を見た五月はあからさまに顔をしかめていた。後で聞いたら本当に嫌そうな顔をしていたみたい。引っぱたいてやろうかと思ったと、口を尖らせていた。五月は時々物騒になる。
「立ち入り禁止になってるんじゃないのかな」僕は一応の抵抗を試みた。
「大丈夫、ちゃんと見学許可もらったからさ。もしかして面倒? また付き合ってって言った時、うんって言ってくれたじゃない。行こうよー」
 そうだったんだ。
 僕はその時の会話をよく覚えていない。何となく気持ちが落ち着かなくて、どうにか気を散らそうと努力していた印象だけが強く残っている。きっと抱きついたのが良くなかったんだと思う。だけどそんな事を五月に言ったら怒られそうだったので、とりあえず余計な発言は控えてOKの返事をした。気が進まないのと断らないのは別次元。
「いいけど、いつ行くの?」僕は言う。
「いつ」
 五月は質問の意味がわからないとでも言いたそうな顔になる。
「いつって」
 それからはっとして、両目に深刻ぶった表情を浮かべた。
「イズミ。本当は私に付き合うの、嫌?」
「うわぁ」
 五月が何かしようと言う時は、即ち今すぐということなのだ。出来るだけ早く、忘れないうちに。僕達の不文律。確かに僕の質問は間抜けだった。
 そんなわけで、僕達は学校が引けるやエレベーターの原っぱに向かった。

 まず驚いたのは、つい二、三日前まで頭を出していたはずのボーリングマシンが跡形もなくなっていたことだ。いくら仕事を終えたからと言って、機械がその場で溶けてなくなるなんてちょっと考えられない。だから解体されて運搬車両にでも載せられているだろうと思っていたのに、原っぱの中心にはドリルの欠片すら見えなかった。
「五月、あのボーリングマシンってどうなったのかな」
「溶けてなくなっちゃったみたい」
 信じられない。
「本当?」
「本当かどうかは分かんないけどさあ、お父さんはそう言ってたよ。溶けて壁の一部になるんだって」
 そんな技術があったのか。でも、陸橋を道に変えてしまえるんだからそれくらいは出来るかもしれない。
 僕達は軽い駆け足で土手を降り、開通三ヶ月目の道路に踏み込む。靴越しにも分かるほど滑らかなコンクリートだ。本当に凹凸というものが全く感じられない、何もないのに滑ってしまいそうなくらい平らな地面。あの光がどんな方法でここをならしたのかは分からないけど、そこら辺の道路と同じではここまで滑らかにはならないと思う。空港や宇宙港みたいな造り方をしているんだろうか。
 しゃがみ込んで地面に触れる。よそよそしさのない大理石という感じの手触り。心なしか、かすかに温かみが伝わって来るような気もする。そう言えば、これは形を変えた陸橋なんだ。
「五月」
 呼び声に応えて五月がほいと振り返る。
「陸橋は壊されちゃったけど、死んだわけじゃなかったね。まだちゃんとここにいるんだね。形が変わっただけで。そう思うと何だかほっとする」
「センチメンタルだねえ」
「うん、本当はあの時、陸橋が爆発とかしなくて良かったと思ってたんだ。だから光が出てきた時は今度こそ陸橋をどこかにやっちゃうんじゃないかって恐かった。なくなるのは嫌だから。でも、ちゃんと残してくれてたんだよ。すごく嬉しい。五月もそうじゃない?」
「いやー、まあねぇ。陸橋大好きだったし、あの子がこれになってくれたんなら万々歳かな。これなら下に落ちたりしないし」
「あ、五月って……」
 言いかけた途端、地面から細かく風が吹き出して、転がっていた石や塵を道路の脇へと追いやった。五月がスカートの裾を押さえながら感心したような声を上げる。
「今の何だろう」
「ここさ、何とかっていう製法で埃や石ころが飛んできてもすぐ吹き飛ばしちゃうようにしてるんだって。ぶわって」五月は片手で大きく払いのける仕草をした。「すごいよね」
「へえぇ。ちゃんと覚えてる五月もすごいよ」
「話したら喜びそうだったから。イズミ、こういう話好きだもんね」僕を指差し得意げに笑う。
 照れくさくなって五月から視線を外した。五月は時々、不意打ちみたいに僕のことを意識する。以前ならそれも自然に受け止められていたけど、陸橋の件以来どうもそれがうまく行かなくなったみたいだ。
 と、建設現場で何かが動いた。
「あ」僕は間抜けな声を上げる。
 よく目を凝らしてみると、地面から灰色の直方体が頭を出していた。しかも動いていた。オフィスビルのシルエットみたいなそれは重力を感じさせない動きで十メートルか二十メートルの高さまで伸び上がって一旦停止し、それから時間を巻き戻すように地面へと吸い込まれてわずか数秒で平面に回帰する。
「何だろ今の。おじさんは何か言ってた?」
「うーん、別に何も言われなかったなぁ」五月は顔をしかめる。「や、待って、建物の実地試験やるとか言ってたからそれかも」
「実地試験って」
「何か実際に建てたらどんな感じになるのかシミュレーションするんだって」
「それじゃさ、あれは立体映像とかそういうのかな」
「行けば分かるって。ほらほら!」
 五月はおもむろに手を差し出し、僕は半ば反射的にその手を握った。手袋越しに五月の温かみが伝わって、心臓が小さく縮んでしまうような気がした。やっぱり抱きついたのが何かのスイッチだったのかもしれない。
 あちらではビルの原型が時々顔を出して不規則な上下運動を繰り返す。すっかり枯れてしまったススキに囲まれた一帯で試験に精を出すダミー。その様子からは目的のためだけに生きているような潔さというか清々しさというか、すっとした感覚が見て取れた。こういうのを機能美というのかな。
「イズミ、あれって実はエレベーターだったりしないかな」
「違うと思う。あんな壁も何もないエレベーターいやだなぁ」
「やっぱそうだよね。でも何か未来っぽい。周りは普通の原っぱなのに真ん中のあそこだけ未来なんて、何か不思議。わたし達って今から未来に行く人みたいじゃない?」
 僕は頷いて見上げる。言われてみれば、エレベーターの辺りだけ時代が違うようにも見える。それなら、僕は五月と一緒に未来へ向かっているんだ。その先には何があるのか、僕達はどう変わって、どんな顔をしてそこに行くのか。そんなことを想像するとどうしていいか分からなくなって、少し恐い。
「びびってる?」
 五月が見透かしたように言ったので、思わず手に力が入った。
「いたっ」五月が小さく悲鳴を上げる。
「ごめん。いきなりだったからびっくりして」
「イズミも恐がりだねえ。そんな心配しないでよ、ね!」
「わかったよう」
 僕の歯切れの悪い返事を聞いて、五月は諦めたように微笑した。
 そうこうしているうちに建設現場の入口に差し掛かった。閉じられた大きなゲートを透かして重機と建材と、そしてエレベーターの穴を覆う月面基地みたいなドームが見えた。
 五月に促されて脇の守衛小屋に顔を出す。事前に話が通っていたのか、守衛のおじいさんは五月が一枚の紙切れを見せただけですんなり門を開けてくれた。いくつかの注意と来客用のタグをくれただけで、案内役も何もつけてくることはなかった。こういうものなんだろうか。
「邪魔しちゃ悪いと思ったんじゃない?」五月はあっけらかんと言った。
 ドームを中心に、反時計周りに進む。真っ平らな地面を厚みの無い直線が等間隔で区切っている。西から東へ、北から南へ、方眼紙みたいに升目を浮き上がらせる。そこが道だから決して外れないようにと守衛さんは言っていた。そうすれば大体安全だと。
 確かにそれはその通りで、線に囲まれた区画からは何の前触れもなくダミーが立ち上がるから外れようにも外れられなかった。恐ろしい場所に来てしまったと、僕は少し後悔した。
 五月はそれにもすぐ慣れてしまったみたいだった。苦手なものでなければあっという間に順応してしまうのは長所か短所かわからないけど、どちらにしても五月の特徴だ。だから、僕はいつも彼女の後を追いかける。五月が軽く押し開けた扉の向こうを恐る恐る覗き込んでは躊躇して、やっとのことでくぐり抜けるといつも彼女が待ってくれている。
 何かの勢いでもう待たなくていいなんて言って、怒り狂った五月に手加減なしで引っぱたかれたことを思い出した。後にも先にもあんなに怒った五月は見たことがない。
「五月」
「なあに?」
「もう待たなくていいって言った時のこと覚えてる?」
「覚えてるよー。また引っぱたいて欲しい?」
 僕は答えず、代わりにぶんぶん首を振る。
「あはは、やっぱ痛かったんだ。結構強くやったもんね」
「思いっきりじゃなかったの。五月って相当力つよっ」
 言い終わる前に右手を握りつぶされた。
「さっきのお返し」
 染み込むような冷たい空気が渦を巻いて、五月は身震いし、乱れて顔にかかった髪を何とかしようと首を振る。左手は僕とつないだまま、右手もポケットの中から出そうとしない。もつれた髪はなかなか戻らないけど、それでも手を冬の空気にさらしたくないみたいだった。
 僕はためらいつつ空いた手を伸ばし、眉毛の辺りにかかった髪を軽くすいてみた。細くて癖のない髪は驚くほど簡単にほどけ、元あった場所に抵抗なく戻ってゆく。
 五月は僕の手を見ると一瞬ためらうような表情になり、それから視線をゆっくり顔の真ん中へと移した。茶色がかった瞳に凝縮された意志みたいな光が浮かんだ。予定外の沈黙が僕達の間を支配して、肌が汗ばむのを感じた。視線を外すに外せない。手が、五月の頬に触れるか触れないかの所からどこにも動かせない。音が消えて、時間が歪む。
 その時、立ち上がったダミーの間から強いビル風が吹き込んできた。五月は反射的に空いた手で頭をかばい、反応しきれなかった僕の頭はなすがままになった。舞い上がり絡み合った髪はさっきの五月どころじゃない。まるで寝起き状態だ。
 五月は軽く笑って僕をくしゃくしゃと撫でた。
「ほら」と、ドームを指差して言う。僕を見る目にさっきの光はない。いつもの五月だ。
 僕は大事な瞬間を逃したようなやるせなさを覚えつつ、いつも通り彼女の後に続く。目の前にはたるみのない帆布みたいなドーム。
 不意に五月の足下がゆらめいた。それは淀みなく僕達の周囲へ広がり、正方形を形作る。頭の奥で走れという声がした。
「五月!」
 叫んで駆け寄ろうとした瞬間、地面が上昇し始めた。


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