エレベーター

 ずっと昔、フライ・ストリートっていう高層ビルで、最新鋭のエレベーターに乗ったことがあった。エレベーターの名前もそのまま『フライ・ストリート』。床も壁も空気みたいに透明なガラス張りでやたらと見通しが良くて、その向こうに見えた景色がすごい勢いで流れていた。きれいに磨かれたサッシがディスプレイの走査線みたいにどんどん上から現れては通り過ぎて行ったのをよく覚えてる。

 ダミーが上昇するスピードはそれどころじゃない。端から見るよりずっと速くて、重力が何倍にもなって僕達に襲いかかってくる。大体、線からはみ出したわけでもないのに何でこんな事になったんだ。アバウト過ぎるよ。
 そう言えば、あの時は五月も一緒に乗っていた。ものすごい加速で上がって行く間、彼女はどうしてたんだっけ?
 頑張ってみたけどやっぱり思い出せなくて、何だか申し訳ない気持ちになる。
 僕は四つん這いのまま五月の所へ急ぐ。床に押し付けられてなかなか思うように動かない手足を必死に伸ばし、もどかしい思いで一歩ずつ進んで行く。最後に見たとき五月までの距離は三メートルあるかないかだったはずなのに、いくら這っても彼女の細い手は視界に入って来ない。一瞬、嫌な予感が首筋を走った。
「……こっち来て」
 かすれ気味の声が頭の上から聞こえた。その頼りなさは心配をかき立てるけど、とりあえず一安心だ。
「五月?」
「早くこっち来て!」
 今度は頼りない叫び声。後押しされるように目一杯手を伸ばすと、ちょうど五月の腕に触れた。
 五月も両手を床について、ほとんどうずくまるような格好で下を向いていた。僕の手に気付いてわずかに顔を上げたけど、周囲の景色が目に入るとすぐさま目をつぶる。眉間に皺を寄せて、まるで暗闇に取り残された子供みたいに。
 五月の高所恐怖症は治ってなんかいなかった。
 僕は何とか上半身を起こし、空いた手を五月の乱れた髪に添えて軽くかき上げた。普段は何があろうと健康的な色をしている頬は血の気が失せたみたいに真っ白で、一日外にいたんじゃないかと思うくらい冷たい。額にはうっすらと汗がにじんで、髪の毛が何本かまとわりついている。風邪で寝込んでいた時とそっくりだ。さっきまでケラケラ笑ってた女の子は一体どこへ行ってしまったんだろう。
「大丈夫だよ、五月」
 五月は目をつぶったまま小さく頷く。腕が小刻みに震えていて、全然大丈夫じゃないことを僕にはっきりと伝えて来る。
「きっともうすぐ止まるし、現場の人達も気付いてくれるよ。すぐ下ろしてくれるよ。多分」
 言葉の端々に自信のなさが出てしまう。何で僕は臆病なんだ。
「イズミも高い所苦手だったっけ」
「や、そんなでもないんだけど、やっぱりさ、こういうのってちょっと……」
「恐い?」
 うんと答えて頷く。すると五月が顔を上げ、歯を食いしばりながらゆっくりと僕の目を見据えた。
 五月は両目にうっすら涙を浮かべながら、弱々しい微笑みを僕に向けた。
「あんまり怖がんないで」
 衝動的に五月を抱きしめた。
 彼女は針で刺したみたいにピクリと身を震わせたけど、抵抗はしなかった。
 僕はそれ以上どうすることもできなくて、しばらくの間、ただ覆いかぶさるような体勢で五月の背中を抱いていた。そうしていると冷たい風が僕達を避けて通るように感じられて、ほんの少しずつだけど不安が溶け始める。彼女の体温も心なしか元に戻ってきたような気がする。
 不意に五月が身体を起こした。それはちょっとの動きだったけど僕を驚かせるには十分で、思わず熱い物でも触ったみたいにビクリと両手を五月から離してしまった。
 五月は一瞬きょとんとして、それからクククと声をもらし、最後にはこらえきれないという様子で床を叩いて大笑いした。もちろん下を向いたまま。
「別にそんな逃げることないじゃない」
 ひとしきり笑ったあとで五月は言った。いつもと同じ、どこか間延びしたような口調。少しは気持ちが落ち着いたのかな。まだ肩は震えているけど、峠は越えた。そんな感じだった。
 ダミーの動きはいつの間にか止まっていた。十階建てのビルと同じくらいだろうか。物差しがないからよくわからない。横目でちらっと景色を見た限りでは、想像を絶するような高さまでは行っていなかった。その分だけ恐くもあるけど。
 風が少し強く吹いて、五月の身体が大きく震えた。僕は再び手を伸ばそうとしかけて固まった。こういうのは考えてしまったら終わりなんだろうけど、僕の身体はどうしても自分から勝手には動いてくれないみたいだった。中途半端に持ち上げた両腕をどこにやっていいのかわからない。どうしよう。
「あー、寒」
 五月がわざとらしく独り言をつぶやいて顔を上げると、僕の目をじっと見据えた。有無を言わさない視線。もう覚悟を決めるしかないみたい。
「風よけ、いる?」
 五月が小さく吹き出して頷いたので、恐る恐る手を伸ばした。さっきと同じく背中を包むような感じで、今度はゆっくりと。風に揺らされた五月の髪が鼻先をくすぐる。手の平がコートに触れるか触れないかの辺りで、五月は僕の懐に潜り込んできた。壁の隙間をくぐる猫みたいなやわらかさだった。僕はためらいを踏みつぶして再び背中を抱いた。
「いいね、風よけ。君も少しはあったかいでしょ?」
 何とか返事を絞り出す。けど、頭の中はそれどころじゃなかった。これからどうすればいいか、形のない考えがいくつも出てきては見えなくなる。キス? 何考えてるんですか。何とか気を散らさないと、心臓が五月の頭を叩いてしまいそうなくらい景気良く運動してる。僕は例によって周囲に視線を巡らせた。こういう時は遠くを見るに限る。
 空はやけに鮮やかな灰色の雲が覆っていて、彼方に見える夕焼けとフレームのない写真みたいなコントラストを描き出している。地上だか地下の方からは低い振動音が聞こえて来る。工事は中断していないんだ。まさか気付いていないことはないはずだから、きっとこれは深刻な事態じゃないに違いない。というか、そうでなかったらもう泣くしかない。
 五月は僕の右手を背中からどけると、そのまま強く握った。冬を手袋にしたみたいに冷たくこわばった手。そのまま目尻に残った涙を僕の袖で拭い、二、三度まばたきをしてから胸元に添える。
「どうしよう」思わず声に出してしまう。
「どうもしなくていいよ」五月は気にもせず答える。
 ダミーの四辺が光った気がした。
「わたしが高い所苦手になったのって何でか覚えてる?」ややあって、五月が聞いてきた。相変わらず視線は床に残したままで、声も少し上ずっている。
「何てビルだったかど忘れしちゃったけど、あったじゃない。円くてガラス張りで周りに八ヶ所もエレベーターがあるビル。あそこのエレベーターに乗った時」
「もしかして、フライストリート?」
「そうそう、それ。君の頭は重宝するね」
「さっき思い出したんだ」
 ドアに背中を張り付けたままうつむいて動こうとしない五月の姿が、唐突に浮かんだ。あれは床の下を見ようとしていたんじゃなくて、恐かった? それじゃ生まれつき高所恐怖症だと思っていたのは勘違いだ。
 肌が泡立った。
 そうか、僕はあの時何もしてあげられなかったんだ。
 五月は続ける。
「それまでは高い所も全然平気だったんだけど、あのエレベーターって周り全部ガラスだったし、床もマジックミラーで下見えたじゃない。あれ、ほんと恐かったのよ。そりゃ床はちゃんとしてたけど、もう自分が何もない所に立ってるみたいでさ。何でみんな怖がらなかったのかわかんない。イズミは恐くなかった?」
 僕はうーんとうなる。覚えている限り五月が言うほどの恐さは感じなくて、景色がきれいだったことの方がずっと強く残っている。
「僕はあんまり気にしてなかったなあ。最初はちょっと恐かったけど、外の景色に見とれちゃってたよ。ほとんど下なんて見てなかった気がする。ほら、外海まで見えたから。五月もあっちまで見るのは初めてだったよね。覚えてないかな」
「だってわたし、途中からほとんど目ぇつぶってたんだもの。あんなに速いと思わなかったし。何か滅茶苦茶な勢いで上がったじゃない? 恐かったよー。近くのビルとか一気に見えなくなっちゃってさ。どこに連れて行かれるのって」
「そうだったんだ。そう言えば、陸橋は怖がってなかったけど、あれは大丈夫だったの?」
「あそこは高いとか高くないって感じじゃないもん。あ、イズミこそ覚えてないかな、あの時の事」
 何だろう。まだ頭が混乱していて、頭の引き出しから欲しい物を取り出せない。申し訳ない気持ちが先に立ってしまう。太陽が今日最後の光をビルの隙間から放って、僕は思わず片目を閉じた。五月の足下から影が、すっと抜き取られるように伸びた。
「これ」五月は繋いだ手を軽く持ち上げた。
「手?」
「そうだよ。君って本当、記憶力いいのか抜けてるのかよく分からないよね。や、もしかしてわざと忘れた振りしてない?」
「してないよう」
「駄目じゃん。覚えといてよ。君、わたしが怖がってるのに気付いてずっと手ぇ握っててくれたんだよ。わざわざ見晴らしいい方から離れて。そしたら何か恐くなくなってさ、それでエレベーター降りた後もずっと離さなかったの。結局高所恐怖症っぽくはなっちゃったけどね」
 そこまで言って一息つくと、五月はとどめとばかりに僕の顔を指差した。
「これで思い出したんだから、今度は忘れないでよね」
 その言葉とほぼ同時にダミーが下降し始めた。五月はきゃっと小さく悲鳴を上げてから安堵のため息をつく。
 上がる時とは打って変わってのんびりした、普通のエレベーターと変わらない速度でダミーは地面に戻って行く。もしかしたら、上に人がいるから気を遣っているのかもしれない。日は建物の向こうに沈んで、風は凪いで、空気はコートの隙間からマイペースに染み込んでくる。エレベーターの現場には行けずに終わりそうな気がした。
「忘れない。ごめんね」僕は五月の耳元でささやいた。確かに、思い返せば五月の手を握っていた気がする。外の景色ばかりに気を取られて抜け落ちていたんだ。
 とりあえず、この事は一生秘密にしておこうと思う。
「ラーメン一杯で許してあげる。あとね、一つあるんだけど言ってほしい?」
「うん。聞かせて欲しい」
「よろしい」五月は咳払いした。「あの時からね、わたし、イズミに手を握っててもらったら何も恐くないんだよ」
 スイッチが、今度こそ完全に入った気がした。
 ダミーはもうすぐ地上に着く。多分、それまでに何かしないといけない。ただ、言葉が出て来なかった。何も答えられずに茶色がかった瞳を見つめていると、背景にドームが現れる。五月の手に心なしか力が込められた。
「な」耐えかねたように五月が口を開いた。「何かー」
「ずっと繋いでる」
「はい?」
「いやその、ずっと手を繋いでるから、何だろう、守るっていうか、あの、五月は安心しててよ。大丈夫だから」
 五月は長い時間黙っていた。何か判断がつきかねるといった沈黙。その間にダミーは家の屋根と同じくらい、次いで二階のベランダ、最後には塀と大して変わらない高さになった。僕はもう飛び降りて逃げ出したい気持ちで一杯だった。別にプロポーズしたとかいう訳でもないのに。
 もう駄目だと思った時、五月はにっこり笑って言った。
「うん、全然期待してないけどお願いね!」
「五月ぃ」
 言い返そうとした僕の頬を空いた手でつねる。
「ありがと」
 そしてダミーはのっぺりした床に吸い込まれ、後には何事もなかったという顔の建設現場が残った。
 僕達は色んな事を表に出したり内包したり、すごく複雑になってしまったのかもしれないけど、それでも一応大した問題もなく地上に戻ってきた。


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