如月は不具だ。左腕の肘から先が切断されて存在しない。これは生まれつきではなく、ロケットの接触事故によるものだ。
 もう十年も前のことになる。
 その当時からして僕は神とか『約束の場所』に興味がなく、同年代の子供達が次々ロケットデビューしてゆくのを他人事としか見ていなかった。危険と騒音が蔓延する世界への第一歩。
 一方の如月は他の連中ほどでないにしろ空に興味を持っており、誕生日のプレゼントにと親から買ってもらった子供用のロケットを腰に括って飛び立って行った。最初は親と一緒に、二週目からは一人で。
 僕は毎晩、複雑な思いで彼女を見送った。僕も如月と同じようにロケットを手に入れて、空へ上がって行くべきなんじゃないだろうか。そうしないといずれ如月に置いて行かれてしまうのではないだろうか。
 でも如月はそんな僕の思いを知ってか知らずかいつも僕と並んでいてくれた。気を遣って空の事を話さないことはなく、だからと言って他の友達みたいに開けっぴろげな話し方をするわけでもなかった。彼女はいつも優しく触れてくれて、ロケットを使わない僕のコンプレックスめいたものを緩やかに溶かしてくれた。
 しかしロケットを使うようになってからちょうど半年が過ぎたある晩、如月はよそ見をしていた大人のロケットに後ろから轢かれ、そのか細い左腕を半分持って行かれてしまった。僕はその時の様子を今でも鮮明に思い出すことができる。如月のつけたロケットが放つ橙色の炎。それに向かって我が物顔に突進する赤黒い炎。僕は思い切り如月の名を呼んだけど遥か上空まで届くはずもなく、彼女を支えるロケットはくるくると螺旋を描きながら四天川のほとりへ落下して行った。
 如月の腕が見つかったのは翌日の朝だったから、再び元に戻すなんてことは神にだって不可能だった。

「睦月」
 如月の声で目を覚ます。気がつけば慌ただしいロケットの炎は嘘のように消え失せ、代わって静寂と柔らかな星の光が空を覆っていた。
「十一時ちょっと過ぎちゃったけど、みんないなくなってからって言ったし、睦月、気持ち良さそうに眠ってたから」如月は言い訳するような口調で続けた。
「ううん、その方が嬉しいよ」
「良かった」
 如月はほっとしたように微笑んだ。彼女の笑顔は風に舞う粉雪みたいで、いつも触れたら消えてしまいそうな儚さをたたえている。
「それじゃちょっと飛んでくる。すぐ戻るから」
「ゆっくり行ってらっしゃい」
 僕は如月に見送られて人々が引けた空に舞い上がる。両手を操縦桿に添えて軽く握り込めば、重力から解放されるなんてペットボトルの蓋を開けるくらい簡単だ。僕の身体は見る間に如月が手を振っている丘から離れ、町を挟んで向かいにある山々の稜線を超えて行く。邪魔なロケットのいない夜空はプラネタリウムをそのまま大きくしたドームのようだ。星は本当にチカチカと瞬いて遥か昔の光を僕に見せてくれる。

 如月が退院する頃、僕は彼女の代わりに空へ上がることを決めた。でも事故だらけの無様な空間になんか行きたくなかったから、夜十一時を過ぎても飛べる特別なロケットが必要だった。暗い空に同化する群青色の炎をターボライターみたいに小さく放ち、サイレンサーも完璧なステルスロケット。
 とは言え、つてもお金もないただの子供だった僕は、その辺りの大人に相談するわけにも行かず散々困り果てた。
 そんな時ロケット工学の権威として地元大学の教授がテレビ出演しているのを見て、研究室を訪ねて行ったら話を聞いてもらうまでもなく追い返された。当然と言えば当然かもしれない。それでも諦めきれずに研究室の扉の前で立ち尽くしていた僕を見るに見かねて自室に入れてくれた人がいた。僕の救世主となる、先生との出会いだった。
 先生は事の次第を聞いて、色々迷ったすえ僕に協力することを承諾してくれた。研究分野がロケットの消音化、消炎化だったのが渡りに船だったらしい。試作品のテストケースになるという危険な任務につくことを条件に、僕は望み通りのロケットを手に入れた。それから度重なるバージョンアップとレポート提出と口頭試問を繰り返し現在に至っている。

 丁度良い高さまで上がって如月の姿を見下ろす。もう手は振っていないけど、視線はちゃんと感じることができる。どんなに見えず聞えずの工夫をしたって如月は僕を捕捉してくれている。そして僕も、遥か上空からでも如月の姿を闇の中に見ることができる。彼女の放つ温かな感触。丘の斜面にぽっと小さな光が灯っているようだ。
 間もなくして『約束の場所』が僕の前に姿を現す。もう何度見つけたことか知れない。これを探し当てるのは至極簡単で、ただ望まなければいい。神は『約束の場所』を求めない者にそれを差し出す。そう考えると、ロケットを生み出した辺りからして人間はそもそも『約束の場所』に行き当たらない運命だったのかもしれない。皮肉なものだと思う。
 神が空の裂け目の向こうからまた手招きをしている。お前、意地を張るのはいい加減やめて、早くこっち側へおいでなさい。
 大きなお世話だ。そんなものには興味がないというのに、神はおかまいなしに誘いをかけてくる。厚かましいにも程がある。
 僕は澱のような怒りを感じつつ、神に背を向ける。

 如月に一度だけこの話をしたことがある。つい最近のことだ。『約束の場所』は初めて飛んだ時から見えていたけど、僕は長い間、彼女の反応が怖くて話せなかった。もしも如月が『約束の場所』を肯定したら、神の元へ行って構わないなんて言われたらどうしよう。
 大人や友達に話せば、常識から言ってきっとそんな返事が返ってくるに違いない。もしくは自分をそこへ連れて行けと。ただ、如月だけはそうであって欲しくなかった。だからこそ、怖かった。
 僕が恐る恐る話すと、彼女は訊き返した。
「睦月は行くつもり?」
「行かないよ。行きたくもない」
「そう」
 そして一呼吸。僕の心臓はロケットの内燃機関よろしく恐ろしい速さで脈打った。
「良かった。私、睦月に置いて行かれたくないもの」
 置いて行ったりしない。そう言おうとして、涙がこぼれそうになるのをこらえた。もっと早く言えば良かったと後悔もした。
 如月は僕と同じ思いを抱いていてくれたのだ。

『約束の場所』を離れ、如月が言っていた青い蝶の形をなぞるように飛んでみる。如月は気付いてくれるだろうか。いや、それは無意味な疑問だ。如月の目に映らない僕など一つもない。
 一通りの自由飛行を終えて更に高度を上げる。冷えた空気が襟元の隙間をすり抜けて肌に届くくらいの高さまで。それからエンジンを切って自由落下を開始する。僕を支えていた二本の火柱が消え、身体が一瞬トランポリンから跳ね上げられたようになる。次いで重力の両手が僕を捕えて町へと引き戻し始める。ゆっくりとした降下から加速度がついて落下と呼べるスピードになるまで数秒とかからない。薄手の上着がバタバタと風になびいて肌に張り付く。既に乱れていた髪は底のない天井を向いて立ち上がり小刻みに揺れる。僕は奈落へ身を投げる感覚に酔いしれた。
 高度が山の頂上辺りまで下がったところで安全装置が働き、ロケットが自動的に点火した。それに続いてジャイロが角度を感知し、立ち上がった格好になるようロケットを調整する。お遊びの時間は終わりだと言わんばかりの強引さで僕の身体はたちまち宙空に固定された。さすがに政府公認レベルの安全装置だけあって、素晴らしく手際がいい。試してみたことはないけれど、他人のロケットとぶつかりそうになった時も寸前で止めてくれるのだという。だから今は、事故とは言っても止まった拍子に勢いで手足がぶつかってしまう程度で、本当に人が死んだりすることはほとんどあり得ない。
 この安全装置は如月の事故を教訓に作られたらしい。如月が左腕を失ってから半年も経たないうちに、全てのロケットに対して装着が義務づけられた。
 だったらもっと早く作れよ。
 神だって同じだ。奴が余計な事さえ言わなければ誰も事故を起こさなかったし如月だって障害者になる必要はなかったに違いない。
 だけど、僕が今から三十年前にタイムスリップして神の口を塞ぐ訳には行かないし、子供の頃に戻ってロケット事故の危険性を訴えることだって出来ない。だから僕は思わず叫びたくなる衝動を何回も、何十回も飲み込んで来た。あいつらが悪いなんて言っても如月が悲しむだけだし、失われたものだって戻っては来ないのだ。
 僕は再び地上を見下ろした。夜中の丘に温かい花が一輪咲いている。十年前は見送る立場だったのが、今は逆になっている。でも多分、如月も僕の姿を見て十年前の僕と同じ思いでいてくれるに違いない。僕達はいつも一緒に飛んでいる。如月が見たものは僕にも見えるし、僕が味わった感覚も彼女に伝わっている。如月はもうロケットを操れないけど、僕を通じて空を飛ぶことはできる。
 いつか二人で一緒に飛べるロケットが出来たらいい。そしたら全てを許して新しい人生が始まるかも知れない。
 僕はそんなことを考えながら、如月の待つ丘へゆっくりと降りて行く。


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