「ただいま」
 僕は丘の斜面にそろそろと着地する。ロケットから吐き出された風が雑草を吹き散らかして二つの小さな円を描く。
「おかえりなさい」
 如月は、いつもの静かな笑顔で僕を迎えてくれた。その声を聞くと、まるで飛び立ってから一瞬すら過ぎていないような気持ちになる。
「今日は早かったね」
「うん、上はちょっと寒かったから早めに切り上げてきた。こっちはまだ暖かいね」
「そうね。風もないし、一晩こうしててもいいくらい」
「じゃ、今日はここに泊まろうか」
「何かする気なんでしょう」
「まさか」
 如月は鈴を転がしたような可愛い笑い声を上げ、右手を僕に差し出す。
「手、冷えてない?」
 草むらにさっさとロケットを放り出すと、差し出された手をとった。冬の暖炉みたいな如月の右手。
「片手だけでごめんなさいね」
「それじゃ右手はここで」
 ニヤニヤ笑いをこらえて首筋に空いた手を添えてやる。同時に如月はきゃっと小さく悲鳴を上げて飛び退いた。
「首筋は弱いって何度も言ってるじゃない。右手も後で温めてあげるから」
 それを聞いて大人しく引き下がる。いつもと変わらないやり取り。
 丘に沈黙が戻り、僕は如月と並んで何もない空間を見上げた。眠りについた世界で、手を繋いだ僕達だけが異質な存在のように感じられる。そして、いつからこうして手を繋いでいたのかと、答えの分かっている疑問を今日も思い出す。

 僕と如月の根源を見出すには、それこそ生まれた時まで遡らなければならない。
 僕達の親同士は元々友達で、家も近く、僕達を抜きにしても仲良く付き合っていた。年齢もほぼ同じで趣味も似ていて休みもよく被る。こういう事ってあまりないらしい。そして、母親が妊娠した時期も一緒だった。親達は、ここまで来ると気持ち悪いなんて笑い合っていたという。僕は親同士の縁じゃなくて僕と如月の縁だと今でも信じているのだけど。
 もちろんと言うか何と言うか、母親二人が病院に運び込まれたタイミングもほぼ同時だった。僕の母親がやっと着いたという時に、すぐ後ろから如月の母親を乗せた救急車が到着したと何度も聞かされている。それから何時間か過ぎてまず僕が生まれ、間もなくして如月も産声を上げた。十六年前の一月から二月にかかる、ちょっとした事件。
 僕は十二時を回る寸前に生まれ、月変わりの鐘が鳴り終わる頃に彼女が生まれた。親達はそれに何かの運命を感じたのかもしれない。僕は一月の睦月と名付けられ、如月の名前も二月になぞらえる形になった。もしも順番が逆だったら僕が如月で如月が睦月だったのだろう。では、どちらも同じ月に生まれていたら?
 そうだとしたら、きっと何も関連性のない名前をそれぞれ勝手に付けられていたに違いない。それで僕は、このタイミングをとても幸運だと思っている。そして如月も。小学生の頃だったか、よく茶化されていた時期、その事を聞いてみたら、当然という顔をして彼女は答えたものだ。
「嬉しいに決まってるじゃない。睦月は嫌?」
 嫌な訳がない。
 僕は如月が生まれる声を聞いた途端に泣き止み、引き合わせられるや思い切り手を伸ばして彼女の柔らかな手をとったのだという。

「睦月?」
 僕は現実に引き戻される。
「何か考え事してた?」
「うん、ちょっと。僕達の歴史について」
 如月は笑った。
「考え始めたら十六年かかるわ」
 つられて僕も笑う。
「生まれた時のことだけだよ」
「ああ、睦月が私の手を引いてどこかへ連れて行こうとした話」
「うん、多分空」
「うそばっかり」
 僕達は再び空に目をやる。如月の顔には屈託のない笑みが浮かんでいる。でも、その奥底に、指先に刺さった棘のように小さく張り付いた陰を僕は見逃すことができない。

 如月の笑顔に陰が降りたのは、やはり左腕を失ったあの事故からだ。
 四天川の河川敷に奇跡的に軟着陸した如月は、すぐさま駆けつけた救急車に乗せられ救急病院へ運ばれた。僕はその場に居合わせなかったけど、話を聞いた限りでは出血量があまりに多くて命すら危険な状態だったらしい。きりもみの遠心力で通常考えられないほどの血が吹き出したのだとか。吹き出した血は文字通り血の雨となって町の一角に降り注ぎ、次の朝、近隣の住民を驚かせたという話だ。
 輸血用の血が足りないとか漫画みたいなミスは起こらなかったから、幸い如月は命を落とすことなく翌日の朝には意識を回復した。その後三日間高熱にうなされ、傷口が化膿して何本もの注射を打たれ、やっと落ち着いたかと思えば片腕をなくしたショックに襲われ、それでも何とか治療とリハビリを強固な意志でやり通し、長い時間をかけて世界に復帰した。
 面会が許されるようになると僕は毎日彼女を見舞った。片腕の残りを包帯でぐるぐる巻きにされ無事な方の腕に点滴を打たれた如月の目は、死んだ人間を思わせる、ぞっとするような静けさを内包していた。友達はみんな一度だけ見舞いに訪れ、ほぼ例外なく如月の様子に血の気を引かせてすぐに引き返し、二度とやって来なかった。両親を除けば僕だけが彼女の隣に座り続けた。
 日常生活へ戻ると共に、少しずつ生気が如月の身体へ戻り始めた。それは複雑なタペストリーを織るように長く、根気のいる、しかし確かな手応えを感じられる過程だった。如月は学校に復帰して三ヶ月もするとぱっと見は元の姿を取り戻したようになり、半年、一年と経つにつれて事故で負った心の傷も塞がって行くように見えた。時折恐ろしいフラッシュバックにさいなまれ、道路を歩いている最中突然後ろを振り返るようなこともあったけど、彼女は一歩ずつ着実に自分の欠片を取り戻して行った。
 しかし、全ての欠片を再び手に入れることは決して叶わなかった。何しろ彼女の左腕は吹き飛んでしまったわけだし、再び空へ上がれる希望もほぼ完全になくなってしまったのだ。医者は義手の装着を強く勧めたらしい。当然の判断だと思う。でも、如月は頑としてこの申し出をはねつけた。その理由は僕も聞かされていない。もしかすると代わりの義手など付けてしまったら本当に腕が殺されてしまうと感じたからかもしれない。そうだとすれば、彼女は自分を保つために完全な不具の道を選んだことになる。それが潔い決断だったのかどうか、僕には分からない。
 陰の原因は外部にもあった。社会に戻れば彼女を健常者と呼ぶことはできず、周りの人間は例外なくそれを意識した。同じクラスの連中は普通に振る舞っているように見えても、必ずどこかしら別の人間を見るような視線を向けてきた。如月の鋭敏な感性がそれを捉えなかったはずはない。そして、直接関わりのない人間は更に残酷な真似をした。校庭に出れば下級生が遠慮なく如月の失われた腕をじろじろと見てきたし、時には「手無し」と呼ぶ声すら聞えた。僕はそうする奴らを全員引きずり出して二度と逆らえなくなるまで張り倒してすり潰して嫌というほど謝らせたかった。でも、根本的な解決には繋がらないと分かっていたからそうはせず、ただ如月の手を握りしめるだけだった。片一方だけ残された小さな手は、時に耐えがたい辛さを表現するかのように、小刻みに震えていた。
 一度だけ耐えきれなかったことがある。学校の帰り、すれ違った酔っぱらいが如月を「片輪」と呼び、突き飛ばしてきた時だ。僕の手は考えるより先にそいつのたるんだ頬を殴り飛ばしていた。
 と同時に如月が僕に力一杯抱きついてきて、一言「やめて」とつぶやいた。彼女は冬の底にいるみたいに大きく震えて、それでも僕を止めようと必死に身体を投げ出していた。情けなさで涙が出そうだった。僕は僕の怒りを満足させるためだけに愚かな真似をしでかし、そして彼女はそれを知りながら、か細い身体にどれだけ残されているか分からないエネルギーを使って、僕を彼女の元へ引き戻してくれたのだ。
 それが三年と少し前。

 現在。
 僕達は相変わらず丘の中腹に肩を並べて座っている。夜も更けたこんな時間にわざわざ丘を登ってくる人はいない。家々の明かりはほとんど消え去って、時折自動車のエンジン音が空気を伝って運ばれてくる以外に物音はほとんどしない。鳥も虫も寝静まっているように感じる。今や僕達のものになった濃紺の天井は、神の気配すら消え去ってただそこに佇んでいる。ロケットのいない完璧な夜空。
 優しく包まれた左手が少しずつ熱を帯びてきて、手の平に汗がにじみそうになるので僕はさりげなさを装って軽く手を引き戻す。すると如月は僕の真意を理解したのか、小さく笑って手の甲に軽く触れてくる。何だかむずがゆくなるような温かさを感じて僕の心は落ち着きを失い、彼女から少し離れるべきかそれとももっと近くに寄るべきなのか分からなくなって結局何も出来なくなる。如月はどうなのだろう。表向きは清流のように淀みなく接してくれているけど、その静けさの向こうに何があるのか僕はまだ知らない。
「如月の手は温かいね」思いあまって口に出した。
「そう?」
「うん、何だかいつも」
「それじゃ、夏は手、つながない方がいいかもね」
「いや、そうでもない」
 如月は笑って手を離し、上着のポケットから小石大の機械を取り出した。中心部が炭火みたいな光を放っている。指先で触れてみると、思った以上に温かかった。
「分子振動式のカイロ。睦月が空を飛んでる間はずっと握ってるの。それで温まったのを半分分けてるだけ」
 そう言って僕にカイロを手渡す。握りしめるとその中心からかすかな震えが伝わってきて、それがやがて手一杯に広がり僕の芯に小さな火をつける。手の平から指先へ、手首から二の腕へ、震動は段々と広がって、僕がカイロを包んでいるのかそれともカイロにくるまれているのか区別がつかなくなる。
「温かいね」
「冬の知恵」
 そう言えば、もう冬が近い。
「でも」と、僕は続ける。「如月の手が温かいのはさ、多分、これのせいじゃないと思うんだ。もっと別の、如月の中から何か伝ってくるような感じ」
 自分で言っていて気恥ずかしくなり、少しうつむいた。時々柄にもない事を言ってしまうのは悪い癖だと思う。頬が熱を帯びて来るのが手にとるようにわかる。ちらりと横目で見ると、如月は珍しくきょとんとした表情で僕を見返して来る。滅多に驚かない彼女のこと、よっぽど意外な発言に聞えたに違いない。
 それから如月は吹き出すように笑った。こういうのもあまりない。
「ごめんなさい」
「ん、別にいいよ。僕もちょっと照れくさい」
「睦月はあまりそういう風に考えないって思ってたの。ロケットを見ている時なんか、いつも皮肉るような感じだから」
「好き嫌い激しい方なんだ」
「そうね」
 如月は一息ついた。何かを考えているか、言いあぐねているような表情が僕の胸を打つ。それから再び僕の手をとって、言った。
「でも嬉しい。時々言ってね、そういうの」
「たまにね」答える声が小さくすぼまって、宵闇の向こうに四散した。
 風が一陣吹いて、遠くに見える四天川の水面を撫でる。蛇行する暗闇にかすかな波が立つ。山肌に散在する木々の葉が一斉にさえずって、眠った町の空気を震わせる。それに呼応するかのように、大通りからクラクションの音が鳴り響いた。
 如月がふと、僕の左手に重ねていた手を離した。怪訝に思って振り向くと、腕を軽く挙げて何かを欲しがるような素振りを見せる。
 ああ、カイロ。
 そう思って手渡そうとしたら、今度は如月が怪訝そうな顔をして首を傾げた。僕達の間に立つ沈黙が一瞬姿を変えた。
「あ、カイロ」僕は言い訳くさい口調で言う。如月は首を傾げたままだ。完璧に的外れな答えを言ってしまった気まずさが僕の身体を包む。
「睦月、違うの。右手」
「右手?」
「あとで温めてあげるって言ったでしょ?」
 耳が熱くなった。ここが暗がりで本当に良かったと思う。如月の言葉に何一つてらいが見て取れないのも、また照れを倍増させる。
 先にカイロを返して遠慮がちに右手を差し出すと、如月は何を思ったのか、掴んだ手をそのままそっと胸元に引き寄せた。手の平にニットとその奥の感触が伝わって、引きつけを起こしたように右腕が跳ねる。それも予期していたのか、如月は全く動じることなく僕の手を握ったまま静かに息を吐く。十六年間生きてきて初めての出来事だった。
「如月?」
 答えはなかった。よく見ると、如月の目は静かに閉じられていた。火照った手の平を通して乱れのない呼吸が伝わってくる。目を閉じれば心臓の鼓動まで聴き取れる。彼女の心臓は、頼りなげな身体から想像できないほどしっかりと脈打って、失われた腕、残された四肢の先へと命の断片を送り込んでいる。その脈動を感じとって、僕の動揺も少しずつ引いて行く。
 耳から血の気が抜けるのを待って、半歩分だけ如月の傍に寄り添った。何となく、距離を縮めるのがいいような気がした。十六年間続いてきた自然な距離感に少しだけ手を入れる。それは不自然でもなんでもなくて、ただその時が来たからそうするという、元から定められていた行為のように思えた。
 僕に合わせてかすかに手を握る力を強めてから、如月も僕に近づいてくれる。そして僕の肩に寄りかかって小さく息を吐いた。やっと自分の居場所に帰ってきたような、深い安堵のため息だった。
 でも、やっと生まれたその平安は、長くは続かなかった。
 身体を寄せ合ってから五分も経った頃だろうか、如月の手に小さな震えが走った。危険な兆候を僕は見逃さず、すぐさま繋いだ手に力を込める。しかし一度始まった震えは間断なく続いて、収まるどころか輪郭をはっきりさせ始める。胸の上下が不規則になり、鼓動が確かさを失って行く。
 たまらなくなって目を開けた時にはもう、如月の全身は一見してそれと分かるくらいはっきりと震えていた。その顔に普段見せている大人びた余裕はなく、代わって苦悩の色が一面を覆っていた。僕はどうするべきか迷った挙げ句、ただ一つの拠り所である右手に更に意思を込め、空いた手で背中をさすった。背中は冬枯れの野原みたいに冷えきっていた。
 やがて涙が一筋頬を伝い、如月は声を立てずに泣き始めた。呼吸の音がかすれ、吐き出される息は温みと雨の気配を帯びて僕の芯を揺り動かす。
 僕は如月が泣くのを初めて見た。

 そう。如月は泣かない女の子だった。正確に言えば人に涙を見せない女の子だった。これは僕だけでなく如月の両親も泣いた所を見たことがないと言っていたから、多分事実だと思う。
 彼女はお気に入りの人形をなくした時も、山に入って迷子になった時も、飼っていた犬が死んでしまった時も、辛そうな表情を見せることはあれ、決して泣くまでは至らなかった。出血多量で命を落としかけたあの夜だって、手術室に運ばれる間、痛みと衝撃で動転しながら、両親と僕に向かって微笑んですら見せたのだ。
 だからと言って、それは彼女が泣かない強さを持った人間であることを意味するわけじゃない。誰にだって人に泣き顔を見せる権利は平等に持っている。仮に無限の強さを備えた人間であっても、一度や二度は人の前で泣いていいし、そうするべきだ。
 僕はそんな簡単なことすら今の今まで気付かずにいた。もしかしたら、気付かなかったのではなく、揺らぎのない側面ばかりを見ることで目を背けていたのかもしれない。
 如月が誰にも知られず一人涙を流し続けていたこと。誰の目にも触れず、泣き声を上げてもどこにも届かない場所に身を隠して泣いていたということ。僕の知らない所で泣いている小さな如月。
 何が原因なのかは知らない。生まれつきそうだったのかもしれない。ただ確かなのは、如月が長い時を過ごす中、泣き顔を隠してきたことだった。

 今や僕はその全てを知ってしまっている。如月の胸に収まろうとして収まりきらず、行き場を見失った暗い水たまりの存在。四天川の川底よりも深いそれは、とうとう胸を食い破って僕の前に姿を現している。
 涙が肩に触れ、ゆっくりとコートの生地に染み込んでくる。僕が一瞬身体を震わすと、彼女の手に一層力が込められる。僕は触れること以外何もできなかった。発するべき言葉も、上手い具合に肩を抱き寄せる余裕も、涙を全て飲み込んでやれる力も、何一つ持ち合わせていなかった。ただ泣いてはいけない、震えてはいけないと自分に言い聞かせて、彼女と手を繋ぎ続けていた。本当に繋がっているのかどうかも分からないままに。
 どれだけの時間が流れたのかは覚えていない。五分か三十分か、あるいは一時間近かったかも知れない。不意に如月は泣くのをやめ、ゆっくりと顔を起こし僕の目を見た。瞼は腫れ、瞳は充血して病の色をたたえていた。その赤く染まった水晶の奥に、すがるような光が垣間見えた。
「……かないで」
「え?」
 間隙。如月は目元を拭ってから再び口を開く。
「置いて行かないで」
「行かないよ」僕は慌てて答えた。「どこも行かない」
「うそ」如月は断言する。目尻に再び涙が浮く。
「うそよ。睦月がロケットの火を消して落ちてくるの、いつも見えてるんだから」
「あれは」
「一人で飛び降りて、いつか私の届かない所に行っちゃうってずっと思ってた。私はもう空を飛べないから睦月には追いつけないんだって。違うの?」
 否定しようとして、一つも言葉が出て来なかった。そうじゃないと言い切れたらどんなにか楽だったろう。でも、どこかにそうである部分を僕は持っていた。わざわざロケットのエンジンを切って五百フィートの空中から落ちて行くことに快感以外の何かがなかったとは言い切れない。そして、如月の瞳は嘘を許してはくれない。
 視線だけは辛うじて外さずに、正解が現れるのをじっと待った。三日月が雲に隠れて斜面に影を落とす。沈黙が落ち着かない重みを帯びて、僕に答えを急がせる。如月も辛抱強くこの瞬間にふさわしい答えを待っている。
 いくら考えても正解は見つからなかった。それはきっと、正解なんてものが存在しなかったからだと思う。如月の古傷を知らず知らずのうちに何度も抉って最後には骨の髄まで切り裂いてしまった僕に、持ち出して来られる言葉なんて存在しない。無意識に人を殺した人間が、相手に向かって何を言ってやれるというのだろう。
 だから僕は、別の道を選ぶ。開いてしまった傷口を縫い付けることはやめて、僕自身の手で傷を塞ぐことに決めた。
 雲が早足に通り過ぎるのを待って、僕は繋いだ手を足元に下ろした。如月の眉が不安げに歪む。乾ききらない涙の跡が、薄く輝いてとても儚げに見える。
 ごめん。
 真っ先に言うべき台詞は頭に押し込めて、少し居住まいを正してから、僕は努めて真面目な口調で問い掛けた。
「如月」
「何?」かすかに期待の込められた声音。
 何も言わず、握りしめた左手を一旦離して頬へ移した。如月の身体が一瞬震える。涙の感触でひるみそうになる身体を何とか鎮め、ありったけの勇気を振り絞って彼女を引き寄せると、月明かりに照らされた如月の表情が見たこともない形に固まった。呆れているとも笑っているとも泣いているともとれる顔だった。物心ついてから一度の泣き顔も見せて来なかった彼女が、初めて出会う場面でこんなことになって、一体どう感じるのか。そんなことは先走った僕ですら想像がつかない。
 それでも間違いではないという確信だけは頑として動かなかった。僕が如月に踏み込み、辛さを引き出して分かち合う。誤魔化しでしかないかもしれないけど、それ以外に方法は思いつかなかった。
 次の瞬間、如月が手を離して地面についたかと思うと、気付かないほどの素早さで瞼を下ろし顔を近づけてきた。そのことに神経が反応するより早く唇が触れ合った。僕は何が起こったのか分からなくなって、混乱したままとにかく目を閉じることにした。それから唇へ意識を移す。如月の唇は涙を含み、冷たく湿っていた。
 しばらくそのまま唇を重ねた後、彼女は僕の身体に思い切り体重をかけて草むらに押し倒した。勢いで歯がぶつかって少し痛い。僕から動くつもりが、結局如月にリードされている。でも、唇を伝って涙の味が口の中に流れ込んで来た瞬間、彼女の支えになることを許されたような気がした。
 再び目を開けると、すぐ真上にささやくような笑顔があった。月を背にして微笑む如月の姿から、少しだけだけど儚さが薄れていた。
「睦月」
 僕の名前を呼ぶ声にさっきまでの悲壮感はない。
「馬鹿ね、遠慮なんかしないの。ずっと待っていたんだから」


最後まで読んでくれてありがとう