一週間が過ぎた。僕達の関係は相変わらずというところで、あの夜のおかげで何かが築かれたとか、逆に崩れ去ったとか、目に見える類の変化はない。天気が良ければ毎晩二人で丘に登り、ロケットの空を眺め、十一時になったら僕は一人で空へ行く。『約束の場所』も諦め悪く出現し続けているし、地上に戻れば如月が手を温めてくれる。
 だからと言って全てが以前と同じリズムに乗って動いている訳でもない。
 僕は最後の締めである自由落下をきっぱりやめた。理由はもちろん如月が傷つくと知ったからだ。正直あの気持ち良さを手放すのはちょっとだけ惜しい部分もあったけど、如月の涙とは、わざわざ比べるまでもない。それにどうせ冬も近づいている。冷え込んで来たらとてもじゃないけど落ちようなんて思わない。止めるにはいい頃合いだったとも言える。
 僕の選択は如月にも悪くない影響を及ぼしていたと思う。その証拠に、ずっと笑顔にかかっていた薄い皮膜が和らぎ始め、代わって子供っぽさやちょっとした空隙が顔を覗かせるようになった。それが僕に泣き顔を見せて言いたい事を口にしたおかげか、もしくは心配事がなくなったからか、実際の所は分からない。多分全てが絡んでいるのだと思う。とにかく如月の陰りが少しでも薄れたのは嬉しい。
 週中のニュースで心身障害者のロケット使用を認める法令が施行されたことを知った。今までは一部の身体障害者と共にロケットで飛ぶことを禁じられていた心身障害者達が、この法令によって新たに空を飛べるようになった。同時に、ロケットの安全基準を一段引き上げるのも決まったらしい。一メートル以内に他人が近づくと緊急停止していたのを二メートル以内に広げるとか。
 ニュースのコメンテーターはバリアフリーとか平等主義とか色々前向きなことを言っていたけど、本当はどうなんだろう。僕は、ただ空の混乱が大きくなるだけのような気がしてならなかった。現状ですら九時から十一時はどこもかしこも渋滞しているというのに、そこへ心身障害者を入れたらどれだけの惨状になるのか誰も想像しなかったのかと聞いてみたくなる。突然レーダーとジャイロが反応し、勢いで腰を痛めたり首を違えたりする可哀想な人達が増えるだろう。そのくらい承知で飛び回っているんだから怪我の一つや二つで文句を言うのはお門違いとも言える。でも、だからって平等主義を振りかざして飽和状態の夜空に拍車をかけるのが良い判断だとはどうしても思えなかった。
 僕は自分さえ良ければあとはどうでもいい冷血漢なんだろうか?

「そうとも言えるしそうでないとも言える」
 先生はコーヒーを一口飲んで、苦味に眉根を寄せつつそう言った。
「ブラックは慣れないな」
「砂糖入れたらいいのに」
「砂糖も買えないくらい貧乏なんだよ」
「何で?」
「ロケットに金つぎこみすぎたから」

 先生との付き合いも、もう十年近くになる。
 僕用のロケットを作るようになった当時は肩書きもない研究員だったのに、今では学部筆頭の准教授にまでなっている。常にやる気がなさそうな割に、腕はいいと思う。何しろ僕は十年間で一度も故障らしい故障に遭った試しがないのだから。
 書面に出来ない契約を交わす際先生がまず命じたのは、とにかく他の誰にも機密を漏らさないようにとの箝口令だった。それは時間外のロケット使用が法律に触れるのと、それに自分が手を貸したことを知られれば即学界追放になるからだ。最悪捕まったとしても自分のことは絶対に口を割るなと十回以上言われたような気がする。そして、色々脅し文句を並べて僕が心の底から震え上がった上で首を縦に振ったのを見て、先生はステルスロケットの製作を承諾してくれた。厳かに製作開始を宣言しつつ、口元が楽しげに歪んでいたのをよく覚えている。丁度いい被験者だとか喜んでいたような気もする。
 最初は自分のことしか考えていないように見える先生をもうひとつ信用出来なかったけど、今になってみるとそういう人で良かったと思う。他人がどうこうというよりも自分のために行動している方が理にかなっているような気がするし、中途半端さもない。それに僕だって自分のために動いているのであって如月に行動理由を押し付けるつもりなんてなかったから、おあいこだ。僕用に編み出した技術を転用して研究や論文に役立てているという話も利害一致の感があっていい。ちょっとした共犯者の気分。

「そんなに予算オーバーしてるの?」少し申し訳なくなって尋ねる。
 先生は僕の弱り具合に気付いておかしそうに手を振った。
「冗談冗談。大方研究費で賄えてるよ」
「大方?」
「細かい所までこだわろうとすると、どうしても足が出る。そしたら自腹切るしかないさ」
「そんな無理しなくてもいいのに」
「無理?」と言いつつコーヒーをもう一口すすって顔を軽くしかめてから、先生は椅子ごとこちらを向いた。表情は曖昧なままだけど、目が少し座っていた。
「無理って表現は適切じゃないな。まあ自分の貯蓄まで研究に使ってるんだから無理って言われても仕方ないか。ただ、自分で始めた物作りってのは、結局のところ徹底的に納得が行くまで続けるしかないもんなんだよ。君も本気で物を作ることになったら分かるだろう。徹底的にってのは、例えばPCの冷却ファンをマイクロメートル単位まで調整するとか、誰も見ない家の床下をきれいに磨き上げるとか、他の人間から見たらてんで無意味なことな。だから見方によっては無価値なやり方とも言えるんだけど、作ることに取り憑かれた人間は、突き詰めるとそういう所までこだわらざるを得ない。徹底できなかったら、それをずっと心に抱えたまま生きて行かなきゃいけないからね」
「でも、ほとんどの人はこだわりきらずに作業を終わらせるんだよね。お金とか時間とか、色々制約があるから」
「当たり。要するにそうやって与えられた枠組みの中でどれだけこだわれるかってのがポイントなわけさ。で、私は納得行かないからちょっとばかり枠組みを広げてやった。代わりに砂糖とミルクといくつかの事を諦めたと」

「先生、誠実な人なのね」
 如月が感心そうに天を仰ぐ。
「そういう自分しか見えない所まできちんと出来る人ってあんまり多くないと思う。大体は言い訳を先に立たせて誤魔化しちゃうんじゃないかしら」
 僕は黒く塗られた四天川を見下ろす。無数のロケットから放たれる光が静かな水面を右往左往して、サーチライトで照らされているみたいに見える。空が以前より狭くなったのは気のせいだろうか。
「確かに手抜きとかはしないかな。何ていうか、自分に対して誠実な感じはする」
 語尾に終わりの気配がないのを察してか、如月は何かを待つような沈黙を向けてきた。視線は水面へ、耳は僕へ。光の描く曲線にまた新しい星座を重ねているのかも知れない。
 僕は少し考えてから二の句を継いだ。
「自分に誠実なら、他人に対しても誠実になれるのかな」
「どうかしら」
「どう思う?」
「わからないわ」
 如月は困ったように笑った。僕も釣られて笑顔を返す。すぐ真上を、ノイズ混じりの音を立てながらロケットが通り過ぎて行った。堤防に打ち寄せる波音と近くの浄水施設から絶え間なく流れてくる水の音、地上の夜を構成する粒子は空から切り離されているんじゃないかと思うほどのんびりしていて、川沿いを歩くのもたまにはいいと思わせてくれる。
「ねえ」と如月。僕は無言で振り向く。
「この間話した青い蝶っていう星座。どの星なのか忘れちゃったの。睦月、覚えてない?」
「ううん。忘れた」
「上の空だったもんね」
 すねた口調でそう言うので、僕は適当な星を指差して夜空に青い蝶を描く。
「デネブのちょっと南東あたりの明るいやつ。あそこからとかげ座の方に線を引いたら台形っぽくなるよ。それを反対の小さいのと合わせたら青い蝶」
 如月は検分するように眺めてから「そうかも」と一言つぶやいた。

「私もね、気違い法はどうかと思ってるんだ」
 先生はうんざり気に言う。
「その言い方はまずいんじゃない?」
「ああ、いや。私の言う気違いってのはそっちの方じゃなくてね。立てた側のことさ」
「議会のこと?」
「まあ、そうだ。あんなもの通したらどうなるのか想像がつくはずなんだけどね」
「もう結構大変なことになってる」
 それを聞いて先生は面白そうに口元を歪める。
「楽しみにしておきな。もっとすごい事が起こるよ」
「例えば?」
「『約束の場所』が見つかるのさ」

「本当かなあ」
「先生がそう言うのなら、本当かもしれないね」
 ロケットを背負った子供が河川敷に降りてきて、如月の語尾をかき消した。風圧で草むらに波紋が立つ。子供は夜空を見上げると、再び地べたを蹴って飛び立って行く。彼は多分、どうして『約束の場所』を求めるのかなんて考えたこともないだろう。ただ、親から擦り込まれた欲求に従って空を飛び回るだけだ。でも、そうしたところで『約束の場所』が見つかることはない。神はもっと無垢な存在を求めている。
 僕は一つの事に気がつき、あ、と声を上げる。「つまり、心身障害者の中には『約束の場所』への欲求が全くない人もいて、そういう人なら辿り着けるってことなのかも」
 如月の目元が思案気に細められる。僕の言った先を見据えているような表情。この顔を見せる時、彼女はいつも僕より大人の近くにいる。
「『約束の場所』に誰かの手が届いたとするじゃない? そうしたら、神はどうするのかしら。『約束の場所』を閉じる? それとも世界にご褒美をくれる?」
 その言葉から、ふと先生の言葉を思い出す。確か先生は、枠組みが変わると言っていた。世間ぐるみで知らない振りをしていた事柄が暴かれるとも。
「わからないけど、あまりいい事にはならないんじゃないかな。見た感じ、神が素直に祝福してくれるとは思えない。どっちかって言うと罠を張っているみたいに見えるんだ」
「罠?」
「楽園に植えられていた知恵の実のなる木みたいな」
『約束の場所』は、何らかの仕掛けと考えた方が通りがいい。何故なら、人間は何千年も生きてきたというのに、三十年前という半端なタイミングで設置すること自体がおかしいからだ。やっと成熟段階に達したから? それもおかしい。成熟は多分より多くの欲求を産む。そこに合わせて無欲になれと言うなら、そもそもの始めから無欲さを植え付けておくべきだ。あらかじめあるべき姿を設定せず、後から心根を試すような真似をするのは、遊びか罠のどちらかにしか考えられない。それは、僕が『約束の場所』を避けてきた理由の一つでもある。空の裂け目のあちら側に存在する得体の知れない胡散臭さ。
 だから神なんか信用できない。
「そう言えば、もう少しで新型が出来るって。先生、嬉しそうに言ってたよ」
「今度はどんなの?」
「それは教えてくれなかった。届くのを待てって」
 一旦言葉を切ってから、足元の石を拾い上げ四天川に向かって投げる。石は一度も水を切ることなく、歪んだ王冠を作って水底に消えて行く。
「出力上げるとか言ってたから、きっと二人で飛べるやつだよ」
 如月はうっすらと微笑んだ。
「そうだといいね」
「そうに決まってる。ずっと頼んできたんだから」
 心持ち語気を強めにそう言うと、如月は嬉しそうに僕の手を握る。十一時の鐘が鳴ってロケット達が一斉に動きを止める。理解できないといった様子で飛び回り続けているのは心身障害者のロケットか。ぎこちない軌道は光を見失った虫を思わせる。
「如月、僕は冷たい奴かな」
「時々ね。でも、私には優しいわ」
「そっか」如月の右手を軽く引く。「それならいいや」
「そうかしら?」
 優しい質問には敢えて答えず、僕は半歩だけ先に立って、流れ星みたいに降りてくるロケットの下を歩き出す。  


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