「あのさ、今日ちょっと一人で上がろうと思う。雨降るかもしれないし。いいかな」
「私はいいけど、天気が悪いなら無理しなくてもいいんじゃない?」
「確かめたいことがあって。人が少なそうな日の方がいいんだ」
「……人のいる時間に飛ぶの?」
「ごめん。訳はあとで話すから」
「ちゃんと教えてね。あと、怪我しないで。風邪もひかないで」
「わかった」
 如月の声に心配そうな響きがこもっていたのは無理もない。何しろ十一時前に空を飛ぶなんてほとんど初めてに近いのだから。いくら安全装置があると言っても、ひっきりなしに人が行き交う空間は、安全とは言いがたい。それに、如月は今でもロケットを恐れている。
 そんな彼女に不安を持たせると分かっていてなお僕を空へと駆り立てたのは、『約束の場所』を見つけた人間がいるという確信だった。

 空で人が行方不明になる事件が発生するようになったのは、例の心身障害者法が施行されて間もなくのことだ。最初は一人、一週間で三人、一月が過ぎる頃には総被害件数が二桁に到達した。事件はどれも似通っていて、ある高度に達した人間が何の前触れもなくロケットもろとも夜空に溶けてなくなってしまうのだという。目撃者も多く、ニュースでは連日彼らへのインタビューが放送されていた。曰く、頭からかき消えた、消える寸前に笑い声がした、七色に光った、ガムランみたいにカラコロと音がした。彼らは一様に興奮していて、証言がどこまで正しいのかは何とも言えないところだった。
 ただ、一つだけ共通している点がある。行方不明になった人々が例外なく心身障害者ということだ。これは誰の話を聞いても同じだし、高校の友達の知り合いも心身障害者が消える所を見たらしい。
 コメンテーターとしてワイドショーなんかに出演している専門家達は、どうもその点については語りたがっていない様子だった。誰しも右から左へベルトコンベアみたいに話を流して終わり。先生の上役に当たる、かつて僕を門前払いにした教授も同じで、興味深い共通項だと言ってはいたもののそれ以上突っ込んだ話はせず、いつも何か別の議論に焦点を移してお茶を濁しているようだった。

「報道管制敷かれてるからね」先生は事も無げに言った。
「情報が隠されてるっていうこと? どうして?」
「タイミングを窺っているんだ。いつ、どれだけの情報を流せば一番インパクトが少ないか」
「普通は逆だよね」
「そう。隠されている情報が世間の不利益になるってことさ」

 言葉を変えれば、行方不明事件の真相が明らかになったとしてもテレビの視聴者はその情報を活用できないということだと思う。だけど、先生が言う通り公開のタイミングを計っているんだとしたら、マスコミや専門家、そして政府も情報を独占することで利益を生むことはできない。だとすれば事実は誰のためにもならない。その上でいつか公開されるということは、事実を知る人達が事を公にしなかったとばれた場合、彼らが責められるからに他ならない。
 いつか記者会見か何かで一斉に発表するとして、その時はどうやって決められるんだろう。事件が一段落ついた頃合いを見計らって、ということはない。そういうやり方は事件が収束しそうな状況でとるもので、今回の場合は収まるどころか加速するようにしか見えないからだ。だとすれば、ある程度世間的に予想がついてきた段階だろうか。それなら先生の言ったことともつじつまが合う。
 知らない振りをしていた事が暴かれる。つまりみんな薄々感づいていたけど敢えて言葉にはせず、尚かついつかは知らなければならないこと。そして、行方不明事件から導き出されそうな空の情報と言ったら一つしかない。
 つまり、心身障害者達の行った先が『約束の場所』なのだ。先生が言った通り、心身障害者が飛び立ったことで『約束の場所』が見つかり、同時にそれを望んでいる人間が決して辿り着けないことが真実として明かされる。

 ステルスロケットの存在が世間にばれると困るから、父親に大人用のロケットを借りて曇った空へ駆け上がる。しばらく前から両親は空を飛ぶのをやめていたから機械の調整は今ひとつで、グリップに油が足りなくて握り込むたび少しきしむ。その代わりと言っては何だけど出力は普段使っているやつより大きくて、僕は時折体勢を崩したり他のロケットに近づき過ぎて冷や汗をかく。汗は湿った風に拭き晒されて身体の芯を凍り付かせる。風邪をひかないよう厚着してきたせいで身体の動きも思ったより鈍く、久々の定時飛行はあまり愉快なものにならなかった。
 いつも見上げてはいるものの、実際飛び込んでみるとその喧騒に驚かされる。蝶の羽ばたきを虫の立場で観察したらこんな感じに聞えるのかと言うくらい、ロケットエンジンの排気音は大きい。空を行き交う誰もが轟々とうなりを上げて、暴風の中に取り残された気分になる。よくよく見るとイヤーウォーマーやヘッドフォンで耳を塞いでいる人も少なくない。みんなうるさいとは思っているみたいだ。聴覚を遮断してよく事故が起こらないと感心する。飛び続けているうちに背中の目が発達するのかもしれない。
 如月を跳ね飛ばした空の地獄。
 嫌な思考を振り切って慎重に高度を上げてゆくと、逆比例して少しずつ人の数が減ってくる。行方不明事件で恐れをなしたに違いない。ある程度の高さからは心身障害者以外にほとんどロケットの影が見えなくなって、火の玉の行き交う海を上から見下ろす形になる。不安にかられて自分の空を制限した人々からは、目的を見失った頼りなさが感じられる。『約束の場所』と行方不明のことも薄々感づいていて、それを認めたくないから空を飛んでいるように見えないこともない。その事実をはっきり言葉にされた時、彼らはどんな受け止め方をするのだろうか。
 スピード違反気味のロケットがぶつかりそうになって安全装置が作動した。心身障害者のロケットだった。彼は僕を見ると無邪気な顔に申し訳なさを浮かべて、ごめんなさいと素直に謝って来る。そしてすぐに上空へと軌道を変える。
 彼の後を追って視線を動かすと、濃灰色の分厚い雲に行き当たった。降って湧いた煙のような雲はすぐ手が届きそうな高さまで広がっていて、星々の光をシャットアウトしていた。雲というより暗鬱な煙を彷彿とさせる雰囲気。天気予報は半分の確率でにわか雨が降ると言っていたけど、見た感じ七割は軽そうだ。僕は雨具を着て来なかった自分のうかつさを呪った。これでもし本当に降ってきて、風邪でもひいたら如月はどれだけ怒ることか。その様子を想像しただけで首筋に嫌なものが走る。彼女は約束を破ると本当に恐いのだ。
 なんてことを思っていたら本当に大粒の雨が降り出した。水滴が細かなバチになって背中のドラムを叩く。雨脚は瞬く間に強まり視界の精度を削り取って行く。にわか雨というよりは夕立に近い勢いだった。ゴーグルは全く用を成さなくなる。コートも水分を吸って急ごしらえのウェイトに姿を変え、僕は電話での軽率な発言を心底後悔した。
 再び眼下に意識を移すと、大半のロケットは今夜の飛行を諦めて地上へと帰る準備を始めていた。中には丁寧に傘の花を咲かせる人もいる。時刻はまだ十時を回るか回らないかというところだけど、世間にとっては終わりの鐘がなったも同じに違いない。雨が降ったら探索は終わる。そう考えれば人々の『約束の場所』への渇望は弱まりつつあるのかもしれない。
 一方、心身障害者はそんな一般人とは関係ない様子で、むしろ台風を迎える子供のように喜んで上空を飛び回っていた。その姿は微笑ましいと同時に危うくもある。彼らはあくまで空に魅せられているのであって、『約束の場所』への希求は皆無と言っていい。だとすればロケットの状態と『約束の場所』を考え合わせた際に現れるはずの心理的なリミッターがないわけだ。あくまで人間が想定しただけの安全装置しかない大空にあって、限界を知らない行動は命に関わる。如月が僕を見て胸を痛めていたのもそれが理由だろう。
 歯止めの利かない心身障害者達はいつかどこか遠い場所に行ってしまうかも知れない。これはあまり気持ちのいい想像じゃない。
 他人事ながら心配して見ていると、彼らのうち一人の向かった先に、何の前兆もなく『約束の場所』が姿を現した。
 雨空の一部に揺らめきが広がったかと思うと空気が色を変える。アメーバのように落ち着きのない形をした門の向こうが『約束の場所』だ。こちらから見るとあくまでも平面的なそこは、絵の具を好き勝手にぶちまけたような混沌。奥で待ち構える神はわざとらしいトーガをまとって子供とも老人とも判別のつかない風貌をしている。その表情は自信と歓喜に満ちていて、今でも僕があちら側に行くことを一つ足りとも疑っていないように見える。ただ、今回のターゲットは僕ではなく心身障害者の男だった。
 彼は楽しげな玩具を見つけたかのように何の疑念も抱かず『約束の場所』に向かって行く。僕は雨に打たれながらその後を追いかけようとしてロケットの出力を一旦は上げたものの、すぐに躊躇して上昇をやめる。操縦桿が雨にまみれて手から滑り落ちそうになる。
 まず、彼を捕まえたとしててどう説得するべきか分からなかった。それ以前に彼を止める権利が僕にあるとも断言出来なかった。彼が望んで赴くなら好きにすればいいのではないだろうか。家族だって、行方不明の真相が『約束の場所』だと知ったら、喜びこそすれ多分悲しみはしない。ならば僕は止めるのではなく放っておいてやるべきだと理性が意見する。
 でも、人類的に筋道が通っているからと言って簡単に納得出来るわけじゃない。僕はあんなに傲慢な神の元へ、目の届く限り誰一人やりたくない。神も『約束の場所』も大嫌いだし絶対に認めない。
 僕は思い切って操縦桿を握る手に力を込め、今まさにそこへ到達しようとしている男に突進する。安全装置なんて関係ない。リミッターカットの方法は先生に教わっている。慣性飛行に切り替えると一瞬装置の反応が遅れてくれる。そのタイムラグを利用して彼の手を引けばいい。狙いを定めたらあとは勢いをつけるだけ。ロケットは僕を軌道に乗せて加速する。目標まで五メートル。三メートル。二メートル。
 そして残り一メートルというところで見えない壁に弾き返された。バランスを失ったロケットは螺旋を描いて僕を地上へ引きずり降ろそうとする。安全装置? 違う、神の邪魔が入ったのだ。その証拠に、視界の端で揺らめく『約束の場所』から、奴は別れを告げるみたいに手を振っている。
 僕が必死で体勢を立て直している間に彼は神から差し出された手を迷うことなく取った。顔には満面の笑みが浮かんでいた。次の瞬間神が高らかに祝福の詞を唄い、彼の姿が七色に染め上げられ、ガムランを思わせる音が鳴り響き、最後にシャッターを下ろす要領で全てがかき消された。後には何も残らなかった。
 ロケットに再度火を入れ、人気のなくなった夜空で下降体勢に入る。叫び声を上げたい気分だったけど、喉から出て来るのはかすれた泣き声だけだった。どこからともなく流れ出した涙がゴーグルにたまって視界を揺らした。
 家の庭に降り立つまでにどれだけの時間がかかったのかは分からない。体は鉛みたいに重く、地面に足がついた瞬間ロケットを支え切ることも出来ないままぬかるんだ芝生に倒れ込んだ。それから僕はずっとぬかるみに顔をつけて泣き続けた。ずれたゴーグルの隙間から涙が流れて泥と交わる。息をする度、口の中に雨粒が飛び込んでくる。巨大な水たまりと化した庭土を、僕は盲滅法に叩く。飛び散った泥が更にかかってみじめさに拍車をかける。
 親が異変に気付いて助け起こしてくれるまで、僕はずっと暗闇に突っ伏し自分を責めていた。
 ロケットと身一つで神に対抗できると思っていた自分。蟲を払う程度の力で跳ね飛ばした神。僕を一度も振り返らなかった心身障害者の男。
 僕は結局何一つ出来ない無力な子供だった。  


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