雨が降った翌朝から三日間、高熱を出して寝込んだ。僕がうなされているベッドの脇で如月はひたすら怒り続けていた。こういう時の如月は容赦というものが欠片すらない。どんな言い訳をしても、事実を一つ残らず打ち明けても決して許してくれない。火山が噴火するような感じだ。火山は一度噴火を始めたら気が済むまで噴火をやめたりしない。祈りを捧げようと化学物質を投下しようと、こちらの都合なんか無視し続ける。
「大分ましになってきたみたい」
「そう」
「如月も林檎食べれば?」
「いらないわ」
「テスト近いし、帰って勉強した方が」
「いいえ、ここにいます」
「如月―」
 如月は感情を抑えた目で僕を見、静かに低い声で言う。
「風邪ひかないでって言ったよね」
「風邪じゃなくて、熱出しただけなんだけど」僕は何十回目かの言い訳を返す。すると如月の目が細められて、しなやかな手が不穏な動きで僕の額に伸びる。三日洗っていない前髪をかき上げ、露になった額を彼女のそれに軽くつける。
「まだ熱いわ」
「もう大丈夫だよ。明日から学校も行くし。あ、お風呂入らないと」
「いいえ、まだ駄目。ちゃんと下がり切るまで許さない」
「いや、でも」
「でもじゃないわ」突然如月の声が高く大きくなる。「私、ずっと窓からあなたのこと見てたのよ。雨が降ってきたのに下りなかったことも、それから上のロケットに近づいて跳ね飛ばされたことも全部知ってるんだから。何であんなことしたの? 神なんかどうだっていいっていつも言ってたじゃない。私だって神も『約束の場所』もどうだっていい。睦月にも関わって欲しくない。熱だけで済んだからまだ良かったけど、これでもし私みたいに事故を起こしてたらどうするつもりだったの? 腕をなくす苦しみがどれだけのものか睦月は知ってるの? 睦月まで私みたいになって、空を飛べなくなったら今まで重ねてきた時間だって辛い思い出に変わっちゃうかもしれないの、わかってる?」
 立て続けにそう言って目尻に涙を浮かべる如月は、いつもより一回り小さく見える。そんな彼女を見ていると僕まで泣けてきそうになるから敢えて目線を天井に逸らし、深呼吸を三回。本当は手を伸ばして涙を拭いたかったけど、払いのけられて気まずくなったら嫌だからやめておいて、代わりに口を開く。
「わかってないから飛んだ」
 如月の息を飲む様子が、気配で感じとれた。
「ごめん。もうしない」
「……ごめんなさい」
「どうして如月が謝るの?」
「私、最近睦月に我がままばっかり言ってるね」
「怒られるのは昔からだから」
 如月は小さく苦笑した。少しは怒りが和らいだろうか。
「先々週の丘でのあれ。あの時から私、思ったことは全部睦月に伝えようって決めたの。そうしないと分からないこともたくさんあるから。でも、慣れてないから何だか全部我がままに思えてきちゃって、睦月がどう感じているのかすごく気になってた」
 僕は少しためらってから答えた。
「もっと我がまま言ってくれていいよ」
「ありがとう」
 如月は、今度は優しく笑ってくれた。
「でも、約束を破ったのは別よ」
 冷却シートを額に貼ってもらうと、僕は目を閉じて夜のことを思い出す。どうして興味もないはずの『約束の場所』にわざわざ近づいたのか。心身障害者に手を出そうとしたのか。神に喧嘩を売るような真似をしてしまったのか。勝てるわけがないことは分かっていたはずだというのに。
 多分僕は、神と『約束の場所』に一矢報いることで如月の敵討ちをしようと目論んでいたのだと思う。如月が不具になった大元の原因はそこにあるという確信が心のどこかでくすぶり続けていたのは事実だし、個人的に仕返しをする権利が自分にはあるともずっと思い込んでいた。それで、神を倒すことはできないまでも何かしら邪魔をしてやろうと、幼児みたいな思考で夜空に向かったのだ。如月に心配をかけてまで。
 結果がこれでは如月に合わせる顔がない。情けなくて本当のことも告げられない。
「睦月、私の腕のことなんか気にしないでね」如月が、僕の心を見透かしたかのように言う。声音にさっきまでの震えはなく、落ち着いて淡い、いつもの調子に戻っている。「あれはたまたまだったの。誰のせいでもないし、誰のためでもない。世界のどこかで起きてしまう事故だった。それがたまたま私の所に来ただけ」
「そんなのって」
「いいの」
 そう言うと、如月は僕の上に身体を預けてきた。頬が触れて熱が伝わり、僕の身体に火をともす。
「たくさん辛い思いもしたけど、ずっと睦月が守ってくれたから、いいの。もし私に何もなかったら、こんなに大切にしてもらえなかったかもしれないもの。きっと睦月だって―」
「馬鹿なこと言うなよ」
 無理矢理起き上がり重さの残る両腕を布団から出して、如月の折れそうな背中を思い切り抱きしめた。そうしたら、如月と一つになって、全てが頭の中に流れ込んで来るような気がした。諦めることで封印してきた希望、ぬぐい去れない劣等感、決して水面に浮かばない卑屈さ、そして僕への想い、何重にも絡み合った糸が一気にほどけて、儚い一本一本が流れ星みたいに僕の胸を突き抜けて行くようだった。
「僕がそんな、変わるわけないだろ」
 気付けば僕は泣いていた。あの夜の無力感とは違う、悲しみとも怒りとも愛しさともつかない感情を込めて、肩を震わせ涙をこぼしていた。
「如月がどんな目にあったって」声が弾けるのが分かる。「何が起きたって絶対、変わらないよ。ずっと大切に、大事にするし」鼻が詰まって上手く言葉が出て来ない。「今までだって、これからだって、一緒にいるから」僕は必死に絞り出した。「だから、そんなこと考えないでよ」涙が如月の髪に触れて、雨上がりの葉のようにしめやかな流れを作る。「一生守るから。一人で悲しまないでよ」
 如月は震えながら、わずかに頷いた。口を開けかけては何かを飲み込むように閉じる。伝えたいことを言葉にできないような仕草だった。何度かそれが繰り返されてから、ようやく顔を上げ、涙に濡れた唇を僕の額につけ、消え入りそうな声で一言だけ言った。
「今まで、ごめんね」
 僕は謝って欲しく何かなかったけど、今の彼女の精一杯が詰まっていたから、我慢して再び抱き寄せた。如月は力を抜いて、耳元に顔を寄せてくる。そして何かつぶやくように唇を動かした。その言葉が何だったのか、僕は今でも分からない。

「つまりは上手く行ってるってわけだ」
「上手く行ってるって言うのかな、こういうの」
「私にゃのろけ話にしか聞えないんだがね」そう言って先生はマグカップに口をつけた。
「別にのろけてなんかいないよ。どっちかって言えばどうしていいか分からない」
「何も考えなきゃいいんだよ、そういう時は。私はそうやって乗り切ってきた」
「そう言えば、先生結婚してるんだっけ」
「誰も信じちゃくれないがね」
 それはそうだろう。研究の虫みたいな先生に奥さんがいるなんて、誰だって信じられるはずがない。おまけに相手が美人と来れば尚更だ。
 先生はコーヒーをすすりながら続ける。
「誰だって変化の時期は不安だし未来が恐くなるもんだ。特に恋愛なんてものはね。問題はそこで足踏みするか前向いて一歩を踏み出すか、それだけさ。どちらがいいかなんてやってみなきゃ分からない。だったら少しでも勇気を出して前に進んだ方がいい。違うかい?」
「分からないよ」
「素直でけっこう。だけど、あんまり彼女の前で不安がったりするなよ。そんな馬鹿正直さは犬にでも食わせておけばいい」
 何だか神妙な気分になって、僕はただ頷いた。先生の言う通りにも思えるし、間違っているかもしれない。でも、先生の言葉が適当さから生まれたものではないことだけは信じられる。だとしたら僕もそれなりの態度で受け止めなければならない。
「そりゃそうと、レポート出来た? ついさっき新型送ったから、入れ替わりで今のやつと送り返して欲しいんだけど」
「レポートは今週中に送れると思う。新しいの、出来たんだ」
「出来ましたよー」先生はどこか誇らしげな顔で椅子に座り直した。「今回のは自分で言うのも何だけど力作なんだよ。出力上げて制御系いじってジャイロも……いやまあ届けば分かるからいいか。とにかくちょっとばかり画期的なやつだから、実物見て驚いていただきたいもんだね」
「楽しみにしてる」
「ま、今度は雨の日に飛んで熱なんか出さんことだね。もう神とかはほっときな」
 表情がこわばるのが自分でも分かった。
 先生の言っていることは正論だし納得もできる。でも、納得したからと言って消え去ることのない敵愾心があるのも事実だ。如月の事故から始まったその感情は『約束の場所』を巡る一件で胸の底に根付きつつある。それを自分で止めることは出来ないし、ましてや自分以外の誰かがどうこうなんて考えるまでもない。
 膝に置いた握りこぶしに力がこもる。神という単語を聞いただけで不快感が喉元にせり上がってくる。
 そんな僕を見かねたのか、先生は手元のマグカップに視線を落とした。それからしばしの沈黙を挟んで口を開く。
「神は私も好きじゃない」
 僕がはっとして視線を上げると、先生の穏やかな顔があった。
「あれのせいでいらん怪我人や死人が数えきれないくらい出てるし、これからは行方不明者だって増えるだろう。資本も天文学的な数字がここ三十年で無駄に浪費された。政府にしてみれば『約束の場所』がなかったらどれだけ他の大事なことにリソースを割けるかってとこさ。宇宙にロケットを飛ばすことだって出来たかも知れない」
「だったら―」
「それでも、だ。神にこだわっちゃいけない。あれは人間とは全く違った論理で動いているんだ。そもそも論理と呼べるですらないかもしれない。だから私達がいくら構おうとしてもそれは水面の月を切ろうとするようなもんで、届くことはないだろう。それなら、私達が生きる条件として飲み込んで行くしかないと思うんだよ。仕方ないって言い方は好きじゃないが、神をいちいち睨んだって馬鹿な政府と変わらないじゃないか」
「そうだけど、実際神を見たらどうしようもないと思う」僕はうつむく。
「如月ちゃんのことを考えな」
「如月?」
「そう。彼女と神とどっちが大事か」
「如月に決まってる」
「ならいいじゃないか。危なくなったら彼女を思い出せばいい。そうすりゃ我慢できる。私はそういうやり方で通して来たね」
 僕は髪をかきあげ、大きく息を吸った。少しだけ世界が大人しく見える。
「出来るかどうか分からないけど、やってみるよ」
「出来るさ」先生は確信ありげに笑って言う。「それより、今度如月ちゃんも連れて来なさいって。君と来たら、一度として会わせようとしないんだから」
 


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