家から町外れの丘までは一キロ程度、徒歩で十分と少しかかる。重いロケットをかついで歩くにはきつい距離だし警察に見つかったら言い訳に困るから、僕はいつも段ボールにロケットを隠しカートに乗せて行く。今日届いたばかりの新型は出力を上げたせいかサイズも重量も二割ほど増していて、引きずるだけでも体力を使う。
 上空を合法ロケットが行き交う中、忍び足で路地を抜け、斜面に差し掛かる辺りから僕の歩みは自然と早くなる。まだ時間に余裕はあるけど何となく気が急いて止まらない。一瞬でも早く如月の顔が見たい。新しい翼を見てもらいたい。そう思うだけでカートを引く手と二本の足に力がこもる。
 時刻は十時を回った頃だろうか。森の中にぽっかり空いた平坦な草地に辿り着き、ためていた息をまとめて吐き出した。それに呼応して額と背中を細かな汗が流れ落ちる。町の方からは相変わらずエンジン音が吹き寄せてくる。
 如月はレジャーシートの上に毛布を重ね、夜の木々より静かに眠っていた。首元まで引き上げたコートの襟に右手を添えた格好で身じろぎ一つしない。規則正しく上下する肩を除けば、精巧に作られた美術品のようにも見える。
 僕はその何とも表現し難い寝姿に少し見とれてから、間違えて起こさないよう慎重にカートを横たわらせ、段ボールの縄を解いてやる。蓋を開け中の暗闇に目を凝らすと、おろしたての機体が輪郭を露にする。大ぶりな二筒のロケットエンジンに、長くとられたハーネス。わずかに残った油の匂いが土や木や草のそれと混じって心地良い。
 仕様書は何度も読み返した。先生から直々に注意も受けた。それでも世界初の機体だと思うと不安が頭をよぎる。緊張で操縦ミスを起こさないか。うまくバランスをとれるのか。事故は決して許されない。何年も意識し続けて来た事が、途端に難しく感じられる。
「睦月?」と、背後から眠たげな声。一瞬身体が硬直して、それから不自然な動きで如月を振り返る。
「ごめん、起こしちゃった?」
「何となく、起きたの」
 そう言いながら上半身を起こす。
「起きない方が良かった?」
 僕は軽く首を振る。
「でも、もう少し寝ていてもいいよ。まだ十一時まで大分ある」
 そして、いつも如月がしてくれるように口笛を吹き始める。彼女ほど上手にメロディを奏でることは出来ないけど、耳障りではないと思う。
 如月は微笑して再び横になる。視線を町に落とし、次いで草むらに座り込んだ僕の胸元へ。口笛はやがて夜空にかき消えて、沈黙がその後を継ぐ。
 僕は操縦桿や燃料をチェックしつつ、何度も空を思い描く。そうしたところで不安は消えてくれないけれど。
 心臓が千数百回鼓動を打った頃、終わりの鐘が鳴らされた。その音を聞いたロケットピープルが一人また一人、地上に降りて行く。その様子をひとしきり眺めてから、僕は自分のロケットに手を掛け目をつむる。後で如月が起き上がり、ゆっくり近づいて来る。
 僕の脇に寄り添ってしゃがみ込んだ彼女は、そっと手を重ね、奥行きのある声で言った。
「睦月、恐がらないで。私まで心配になっちゃうわ」
 その一言で不安が溶け落ちる。
「ああ、うん。分かった。……大丈夫」
 安心を誘う笑み。彼女に見通せない事は何一つないのだと、今更ながら思い知らされる。
 もう夜空に人影はない。頃合いだ。
「じゃ、行くよ」
 そう言ってロケットを背負い、予想以上の重さに少しふらつきつつ如月の手をとって引き寄せる。彼女はそのまま僕に背中を預け、軽く身体を弛緩させる。
 そのあと少し考えるような仕草をしてから唐突に身体を反転させて僕の首に抱きついた。
「あの、如月? 向きが逆なんですけど」
「だって、こうしないと睦月の顔が見えないわ。それにきっと、この方が怖くない」
 鼻先が触れそうな距離で悪戯っぽい笑みを浮かべる如月に何も返せず、黙ってハーネスを取り付ける。腰の辺りをきつく締めると色んな感触が強まって、顔に火が入る。ずっと前から望んできたことなのに、いざ現実になってみると、ちょっと困る。
 悪戦苦闘すること五分、ようやく二人分の身体をロケットに括り終えて大きく息を吐いた。あとは先生の計算ミスがなければ大丈夫なはず。
「さて」と僕はつぶやいた。「怖くない?」
「少し怖いな。何年も飛んでいないから。でも、睦月が守ってくれるでしょう?」
「もちろん」
 微かに汗の残る手を一度だけ拭いて、操縦桿を握り込む。すると二筒のロケットは待ちかねたように短い炎を生み、僕達を地上から切り離した。
 サイレンサーは完璧、炎はターボライターよりも小さくて暗い。だというのにエンジンの気勢は高く、以前の二倍近い体重をものともせず空へ運んで行く。僕の首に回された右腕が時々こわばり、水面下に潜む恐怖を伝えて来る。僕はその揺らぎに一石を投じるべく如月の腰に手を回す。これまでと違うのは二人とも同じだ。
 十分な高度に達してから四天川を避けて市庁舎近くに移動し、ホバリングに切り替える。眼下に町を一望出来る丁度良い位置取りだ。家々は半分以上灯を消しているけど市庁舎の時計塔は夜通しライトアップされていて、闇に浮かぶ灯台を思わせる。
「時計塔、変わらないね」如月がつぶやく。「初めて飛んだ時と同じ」
「僕達は変わって行くのにね」
 如月の身体からためらいが消えたのを感じ取り、遊覧飛行に移る。町を縁取る形で楕円を描きつつ山脈方面へ。四天川をなぞり丘を見下ろし再び町の中心部に向かう。冬枯れの風は冷たく、如月の頬は温かい。
 更に高度を上げると、例によって『約束の場所』が見えてくる。神も健在のようで無邪気な手招きを僕達によこす。僕は再びホバリングに入り操縦桿で空の風穴を指した。
「あれ、『約束の場所』。見える?」
「うん。思ったより小さいね」
「精一杯なんだ」
 如月は楽しげに笑った。
 小指の先ほど芽生えかけた黒い感情を如月への想いで塗りつぶす。思ったより簡単だった。先生の言った通り、神なんて二人でいれば気にもならない。
『約束の場所』は、無視していたらすぐに見えなくなった。彼もいい加減諦め気味と悟ったのかもしれない。
「しっかりつかまって」と前置きして、操縦桿を最大限に引き絞る。小さな悲鳴。一方で緩められる右腕。如月は半身になって行く先を見据える。僕は慣性と重力と液体燃料の力を総動員して空を駆け上がり、滑り、降下する。限りなく黒に近い炎が描く二つの台形は、如月が見つけた青い蝶。
「誰か写真にしてくれないかしら」と、如月。声音がいつになくはしゃいでいる。
「先生ならやってくれるかも」僕は山脈の麓を指す。
 大学のキャンパスから、前世代のステルスロケットを背負った人影が上昇を始めていた。
「あの人、先生?」
「うん、多分。大学から飛ぶなんて、大丈夫かな」
「でもきっと楽しいわ」
 そうかもしれない。
 先生のロケットはぎこちない動きで近づいてくる。僕はわざとかわすようにして、丘に揃った樹冠を撫で、そのまま薄雲の近くまで上昇する。
 下弦の月に照らされた如月は、僕の顔を残された右手と幻の左手で引き寄せ、小鳥みたいなキスをした。
 先生は時計塔の上を旋回する。
 僕と如月は微笑みを交わす。
 彼が放つ群青色の炎。
 生まれたばかりの見えない炎。
 神すら消えた真夜中に、僕達の色はよく映える。
 

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