三、湯

 歓声が闘技場内にこだましている。観衆が試合の機微に呼応して上げる嬌声と悲鳴は、渾然一体となって大掛かりな波を作り上げる。さながら凪いだ砂浜のように。あるいは風足の強い内海のように。彼らが空気を震わすたびに五百人規模の闘技場が揺れ、衛士達の鍛えられた筋肉に活が入り、そして控え通路の壁に寄りかかって座るサディの胃が締め上げられた。
 対抗戦は第四試合に入っていた。ここまでの戦績はサディ側の二勝一敗。先鋒に抜擢された新入りが予想外にあっさりと負けたものの、その後は熟練の衛士が体勢を立て直し、例年通りの起伏ある舞台を整えていた。四戦目は開始直後から相手の攻勢が激しく一方的な展開になるかと思われたが、そこは打ち合わせと訓練の成果というところか。一瞬の隙から反撃に転じて現在は互角の勝負を見せている。サディが横目で見た限りにおいて散見される作為的な隙は、しかし観衆の目を騙すには十分な精度を持っていた。
 サディは脇に立てかけていた槍斧を手元へ持ってきて、斧刃の部分に軽く触れた。磨き抜かれた刃の腹は松明の光を受けて黄白色の円を浮かべている。あと十分もすれば相手の団長と切り結ぶであろう薄い鉄板を、サディは愛おしげとすら言える手つきで撫でてやる。信用に足る人間の少ない中で生きてきたからかもしれない。彼はいつからか自分の相棒に強い思い入れを注ぐようになっていた。たとえそれが物であるとしても。
 槍斧は何も言わず彼の手の内で輝いている。何百回何千回と握り込まれた柄は一部が丁寧に塗られたのではないかと思わせるほど色あせている。サディの吐息が斧刃にかかるたび、薄ぼんやりした白い円が広がっては消える。
 刃から視線を離して闘技場を横目で見やると、試合はやや優勢といったところまで盛り返していた。四番手の衛士アンガスは、そのトレードマークとも言える大剣を思うさま振るって相手衛士の足を完全に止めている。しかし相手も身動きがとれないところまで追いつめられている感はない。体勢的には引き気味であるが一撃一撃を着実にさばいている。押し込まれつつも反撃の機会をうかがっているという様子である。
 おそらく最後に逆転されて大将戦にもつれ込むのだろう。サディは目を細めて考えた。わかりやす過ぎる筋書きと言えばそうだが大勢の観衆に訴えるには最高の形である。アンガスが更に攻撃の手を強め、止めとばかりに放った斬撃をかいくぐって紙一重の勝利。実戦ではあり得ない状況も、衛士にとっての模擬戦である対抗戦においては許される。その後サディが求められるのもまた、接戦の末の勝利である。
 現状からは接戦どころか勝敗の行方すら想像がつかない。
 いっそのことこのまま勝っちゃってくれないかな、アンガスさん。
 一瞬頭をよぎった考えをサディはすぐさま否定した。たとえここでアンガスが勝ったとして、サディが簡単に負けて良いという理屈には繋がらない。勝敗が決した上での大将戦となれば、好試合への圧力はむしろ強まると言って良いだろう。つまり自分はアンガスの勝利を望むべきなのだ。そしてその上に希望を乗せられるのであれば、決着までになるべく長い時間をかけて。そうすれば身体にも少しは余裕が生まれるし、長期戦の連続はよろしくないという理由からある程度楽な試合運びもできるというものだから。
 どちらにしても、確かなのは気持ち良く動けないということだ。
 サディは冷たい壁面に後頭部をもたせかけ、焦点を現実から外した。
 戦闘を終えた三人は既に闘技場から立ち去った。今頃は詰め所か酒場に集って互いの労をねぎらい合っているに違いない。他の団員は祭りの警備に駆り出されているから、一足先の宴会というわけである。
 彼らは対抗戦の頭から通路に座り込んでいるサディに一声かけはするものの、それ以上積極的に関わろうとはしなかった。一見して薬を切らしていると分かったからだ。薬の切れたサディは刃引きされた短剣に等しい。彼らは対抗戦の惨憺たる結末を予測し、それを連想させる彼から一刻も早く離れたがっていた。負けて戻ってきた新入りに至っては、彼の存在に無視を決め込みすらした。そして誰一人ハイトに状況を伝えようとはしなかった。
 耳に飛び込んでくる歓声と剣戟の音を整理してゆけば、残された時間が大体わかる。アンガスの大剣が盾を打った。力強い一撃だが手から弾くまでは至らず、相手はすぐさまバランスを整えて返しの一突きを放つ。アンガスの剣が地面を擦りながらそれを受け流す。火花が散って客から驚きの声を誘い出す。
 戦いを整える形で反撃が来たのなら、それは長期化の合図だ。前三試合と合わせてみると、流れのままに試合が終わることは考えにくい。サディは反撃が出来るだけ長く続くことを願った。返され、返し、最後に返される。おそらく五分かかるかかからないかの時間稼ぎである。
 サディは薬探しに一時間を費やした自分を呪った。朝起きて見つからなかった時点で見捨てられたと諦め、別の手段を考えるべきだった。前日に生まれた欲が発想の転換を阻害したのだ。
 彼を良く思っていない集団、その最右翼であるアンガス一派が薬をどこかに持ち去った。普段のサディならば、直感でそれを察知し薬剤師の元を訪ねるなり何なりしたに違いない。致命的な選択ミス。一時間あてもなく詰め所を探しまわった挙げ句、手に入れたのはいつも以上の吐き気と揺らめく視界のみ。焦っている場合ではなかったのだ。
「サディさん」
 闘技場からやって来る音の奔流を、気遣わしげな問い掛けが打ち破った。まだどこか幼さを残す響きはサディの耳の奥に入り込んで溶けてゆく。しかし、サディはしばらく耳元近くから発されたその声をうまく認識できずにいた。視界は二重写しになったまま不規則な曲線を描いている。とにかく少しでもましに。自らの願いだけが彼の心中にこだましていた。
「サディさん」
 少女はサディの前にしゃがんで直接目を覗き込んできた。はっきりしないがどこか見覚えのあるショートカットが彼の意識を現実へと引き寄せる。その目には彼の名を呼ぶ声と同じ温度の気がかりさが満ちていた。
「サディさん」
「レーゼ」
 三度目の呼びかけにやっと答えると、少女はほっとした様子で微笑み、肩にかけていた鞄を床へと下ろした。両手には口の長いポットが大事そうに抱えられている。サディはそのポットにも見覚えがあった。例の劇薬を調合してくれる薬剤師、彼の店にいつも置かれていた薬湯のポットだった。
「闘技場に入る前、顔色悪そうだったから勝手についてきました」
「そのポット、持ち出していいの?」
「お父さんは試合見に来てますし、すぐ持って帰るから平気です」
 言いながら鞄から肉厚のマグカップを取り出しサディの手に握らせる。マグカップは冷えていたが、レーゼの手は薬湯を運んで来たせいか心地良い温みを帯びていた。
「すぐ効く薬湯作ってきました。飲んでください」
 そして、手に持ったポットから慣れた手つきでマグカップへと薬湯を注いだ。浅葱色の液体はいかにも薬湯といった風情を醸し出す。晩秋の冷気に湯気の柱が立ち上る。薬湯がマグカップの七割に達すると、彼女は手を止め再び彼の眼を、今度は意思を含んだ目つきで見据えた。
 サディはマグカップを伝う熱気を両手で受け止める。それから半ば目をつむりつつ中身を口に含んだ。舌が火傷しない程度に温められた薬湯はわずかな粘性を持って口の中に広がり、控えめな苦味とその奥に隠された甘味を運んできた。身体と相談するようにゆっくり飲み下すと、液体は食道を丁寧に舐めて身体の芯に小さな火をともす。そして今や穴だらけの胃に辿り着いて拡散、穴の一つ一つを優しく撫でてやわらかな膜で包んで行った。
 二口、三口と飲む度に身体の火は大きくなって、胃から更に奥の様々な器官に向けて膜が広がる。温かなうねりが背骨を伝い、首筋に届くとサディの意識は水面へ浮上する。視界のぶれがスローモーションで収まって行く。
 勇気づけられるようにしてマグカップを空にする頃には、薬が見つからなかったあの朝まで身体が巻き戻されていた。
「どうですか?」
「もう一杯」
 都合二杯半、サディは薬湯を飲んだ。最初は影に潜んでいた甘味が今では表立って口の中を満たし、彼に食後の安堵を味わわせる。
「私、隠れて色々勉強したんです。だから多分効くと思います」
「もう効いてきてるみたい」
 レーゼはマグカップに残った薬湯を飲み干し小さく頷いた。
「多分大丈夫。でも油断しないでください。あと、お父さんには内緒で」
「分かってる。でも君はすごいよ」
「父が父ですから」
 サディは笑って立ち上がった。槍斧を捧げ持つと先ほどまでの半分の重さに感じられる。好調が近づいている証拠だった。
 通路の向うから一際大きな歓声が響いてくる。試合が終了した合図である。途中から注意を払っていなかったため勝敗は分からなかったが、その事への関心は既にサディの頭から消えていた。
 柄の中程を両手で持って、瞬発力で一回転させると風切る音が甲高く響く。楕円形の光が通路の真ん中に描かれる。レーゼがおだて混じりの驚声を上げた。サディはそのまま槍斧を脇に構えて闘技場へと向き直った。
「ありがとう。行ってくる」
「長引かせないように気をつけて」
「どのくらい持つの?」
「少しだけ」
「充分だね」
 それだけ言って歩き出したサディに向かってレーゼは注意を促す言葉をかけたが、彼は片手を上げて返礼するだけだった。彼女は少しふくれてマグカップを鞄に放り込むと、彼とは反対方向へ戻って行く。
「気休めですからね」
 サディは闘技場への道すがらアンガスとすれ違う。憮然とした表情からして予定通り負けたのだろう。彼はサディの姿を認めるとそれを隠すようにわざとらしく心配そうな表情を作り上げ、何事か二言三言投げかけてくる。だが、その声はもう彼の耳まで届かない。アンガスの顔を見ても何ら気持ちが動くことはなかった。


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