四、壊

   

 とは言え、レーゼが最後に釘を刺した通り、確かに薬湯は気休めに過ぎなかった。それが証拠に、四方から降り注ぐ観客の声がどこかひずんで聞えてくる。視界は辛うじて落ち着きを保っているが、いつ焦点が合わなくなってもおかしくない状態と言い換えても良い。胃の縮みようを鑑みると、動けばせいぜい五分もつかどうかというところだ。
 一方で、精神が刃のように磨き抜かれた光を放っているのをサディは感じていた。神経に作用する薬草が入っていたのだろうか。意識にかかっていたもやは今や完全にその姿を消し、想像力の手足は未来へ伸びて戦いの行方を無限に予測する。手足も、確認した訳ではないが感覚に遅れをとることは無さそうな軽さが戻っている。持久力を考えて全開で行くことはしない。それで充分な戦いになるはずだ。全開ではない戦い方というものをどこまで出来るか自信はなかったが。
 気付くと闘技場の中心に着いていた。眼前には彼より二回りほど立派な体格をした男が立っている。衛士団長のエンキである。薄手の全身鎧に包まれた身体はまた筋肉の鎧で覆われ、腰に差した長剣も彼にかかればフォークと変わらぬ重さに見えてくる。一見して、前年よりも強くなっていると感じた。多くの研鑽を積んだのだろう。ハイトとの実力差を意識したのだろうか。
 それでも僕より強くはない。
 サディは一瞬浮かんだ慢心をすぐさま脳から弾き出す。半病人状態の自分を思い出して集中を途切らさないよう槍斧の柄を握り込み、グリップを確認する。手の収まりはまずまずで、どうやら思い通りの軌跡を描いてくれそうだ。あとは見せられる程度の試合を作れるかどうかというところだが、敢えてそれについては考えないことにした。どうなるにせよ後に引く選択肢はないのだ。
「顔色が優れないようだが」
 ちょうど彼の額に話しかけて来るような調子だった。低く震えるようなその声は、額を通り抜けて直接彼の脳に届けられる。子供のいる声だ、とサディは何となしに考える。気遣わしげではあるが、それはサディよりもむしろ試合そのものへの心配といった口調である。
 揺さぶりをかけられた頭でその言葉を反芻した。もしや、自分が勝っても良いと申し出ているつもりなのだろうか。それだとしたらお門違いだし、少し力を見せつけてやる必要があるかもしれない。そうではなく単に試合の内容を考えての発言ならば聞き流しておくしかない。どうせ相手と息を合わせた上手な試合運びをする余裕はないのだから。
「色白なんです」
 エンキは安心したようにきびすを返す。サディも自分の立ち位置に取って返す。その際に槍斧で足元を薙いでやると、砂埃が巻き上がり応援の声に勢いをつける。特に、女性の甲高い嬌声は、試合開始前だというのに最高潮まで達していた。
 再び闘技場の中央を振り返る。相手は既に兜の面頬を下ろし、臨戦態勢に入っていた。丁寧に刈り込まれた髯も安堵の思いを起動させる口元も、今や全てが鉄の板に包み隠されている。唯一窺えるのは、戦闘前に似合わない穏やかさをたたえた双眸。腕に簡素な盾を括り付けただけのサディとは対照的な重装備である。それを見て安心感がよぎった。とりあえず、間違って殺してしまうことはない。もっとも相手からすればやり辛いことこの上ないかもしれないが、そこは相談済みである。
 エンキの長剣が抜き放たれる。サディは槍斧を水平に構える。そして勝負開始の鐘が鳴った。

 まずは挨拶といったところで、エンキが切っ先を胸の高さに突き出してきた。サディはそれに応じて斧刃を軽く合わせ、そのまま巻き込んで弾いてしまえればどんなに楽かと考える。本当の実戦であればためらわずに跳ね上げ首を切り落としているところだ。しかし、観客の視線に加え両都市の有力者も顔を揃えているこの闘技場において、それは不可能である。出かかったため息を飲み込んで刃を打ち鳴らし、後方へ一歩ステップする。
 続いて繰り出される型通りの打ち込みを二つ三つ簡単に払って盾の出そうな所へ横薙ぎの返礼を一つ。しかしエンキの反応は予想していたよりも緩慢だった。不意を突かれた形になって早くも体勢が崩れかかる。
 ちょっと勘弁してくださいよ。
 思わずこぼれかかる言葉を遮るように槍斧を反転させて長剣の根元に打ち込むと、エンキは何とか身体のバランスを取り戻し防御の態勢をとる。半身に構えて盾を前に押し出す形である。サディは半ば呆れながら盾の中心を突き、カウンターとばかりに返って来る斬撃を柄で受ける。するとその震動で胃が跳ね、吐き気が堰を切って押し上げられてくる。押さえ込むように唾を飲み込んで耐えようとするが、視界の歪みが大きくなって足元がふらついた。傍目にはエンキの一撃で体勢を崩した格好に見えなくもなく、観客は序盤から両者譲らぬ戦いと捉えて一層声を張り上げる。
 槍斧をつっかえ棒にして踏みとどまると、ここぞとばかりの反撃がサディを襲う。
 まずはステップを入れ替えて逆からの水平斬り。それも柄の中程で凌ぎ、次いで順手の袈裟斬りに下段からの切り上げを合わせて弾く。するとエンキの右腕はまるで教科書のような動きを見せ三段の型に入る。足払いから盾を突き出したタックル、それをバックステップでかわした所に大上段からの打ち下ろし。サディは槍斧を斜めに構えて受け流す。一撃を受けるごとに視界の波がゆらめき、薬湯の効果など嘘のように内臓が暴れ回る。へたり込みそうになるのをこらえるのに精一杯で攻撃まで手が回らない。
 どうしたと言わんばかりにエンキの攻勢は続く。しかし上中下と丁寧に分けられた斬撃は、力はあるものの一本調子過ぎてサディの身体に届かない。
 最初は正直に柄で受けていたサディだが、五回十回と重ねられるに連れていささかうんざりし、やがて大儀そうな回避へと行動をシフトさせてゆく。それに苛立ちを感じたのか、エンキの攻撃は一撃一撃の重さを更に増して風切る音を辺りになびかせる。客は既に大喜びだが実情は逆の意味で一方的である。
 サディは何度目かの袈裟斬りをかわしざま、観客席の上方を横目でうかがう。貴賓席の端にハイトの苦虫を噛み潰したような表情が見て取れた。
「ごめん」
 苦笑いを噛み殺してつぶやき、そして地面に達しようとしている長剣の刃を斧刃の返しで押さえつけてやる。一時の休息である。エンキはかすかに息を切らして彼を睨み、それから二、三歩後ろに下がって攻撃の姿勢をとった。
 三秒。
 静止によりわずかながらも落ち着きを取り戻した身体を確認して、今度はサディが動く。エンキの型を真似た足払いからの三段攻撃。タックルの代わりに切先での突きを交え、跳ね上げた盾に上段切りを打ち込む。衝撃でよろめいたところに止めを入れはせず、わざとゆっくり腰元に構え直すと慌てて差し出された長剣の刃を狙い撃つ。そうするとエンキの胴体は完全な無防備になったが、サディはここでも仰々しく構えを直して時間を稼ぐ。
 再び貴賓席を見るとハイトが片手で顔を覆っている。下手な芝居だったらしい。
 エンキの目は、今や面頬の奥で怒りに燃えている。それが未熟な自分への怒りかわざとらしい演技に対するものなのか、サディの目には分からない。
 エンキが感情に任せて大きく振りかぶる。すると、胴薙ぎの気配を察知したサディの身体が一足先に動く。逆に相手の左手に回った盾目がけて斬撃を放ち、刃と盾が触れた部分を軸にして一気に後方へと回り込んだ。そして完全にがら空きになった背中に向かって足の裏で蹴りを入れる。
 まずい。
 彼は瞬時に全てを後悔する。エンキの怒りを更にかき立ててしまい、ついでに体幹を崩したことで吐き気にも拍車がかかったのである。彼はそのまま片膝を付いて口元に手をやった。先ほど飲んだ薬湯と胃液がないまぜになって喉元までせり上がっている。無理矢理押し戻そうとすると涙で視界がぼやけて行く。
 もう駄目だ。
 そう思ったあとの展開をサディはよく覚えていない。確かなのは、身体は最後まで着いてきたという事実だけである。
 振り返ったエンキは最早感情を抑える努力など微塵も見せず、衛士団長の威厳をかなぐり捨て力任せに長剣を振り回してくる。刃が迫るとサディの防衛本能が身体を無理矢理動かし防御行動を起こす。回避。打ち払い。受け流し。バックステップ。打ち払い。打ち払い。打ち払い。左右の切り返しに槍斧を回転させて応じ盾を蹴り飛ばし柄尻で脛を打ちそのまま顎をかち上げ得物を反転させ切先で突き飛ばす。そして敵が最終手段とも言える型を繰り出してきた所で視界が一気に開け、身体が跳ね上がった。
 何度見たか知れない斜め上方からの剣戟を槍斧で受ければ、最早その後に続く連撃からは抜け出せないコンビネーションである。それを知っていながらサディは敢えて受け止める。エンキの目に勝利の確信が見えた瞬間、上半身を反転させて盾に横薙ぎの一撃を入れ外側へ弾き飛ばすと一気に懐まで飛び込み次の一撃が脇から飛んでくる寸前に敵の頭上へ飛び上がる。そして身体を空中に横たえた状態に置いてから全身のバネを使って槍斧を回転させ、肩口のやや奥を狙って渾身の一撃を打ち込んだ。
 サディの無意識的な狙いは斧刃の端を鎧の隙間に引っ掛けることで、それは見事に成功した。勢いのまま彼と彼の相棒はエンキの上半身を前方へ引き倒す。エンキは完全にバランスを崩して倒れ込み片手を地面に突く。一歩遅れて着地したサディは念のため頭に蹴りを入れてから斧刃を首元に添えた。エンキはうなだれ、敗北を認める。嬌声がサディの五感を揺さぶって耳の奥から体内を駆け巡る。
 三度ハイトを見上げると、仕方なしと言った表情で拍手を贈っていた。
 何とかやり通したという安堵と急激な運動から来る最後の吐き気に耐えきれなかったからと言って、誰もサディを責めることはできない。しかし、場所もタイミングもやり方も全てが最悪だった。
 エンキが兜を脱ぎ、さばさばとした表情で彼を見上げ手を差し出してくる。握手をするんだ。そう思って空いた手を上げた瞬間、かつてない吐き気と共に胃の中身が全て逆流した。吐瀉物は手に遮られること無く空中に四散し、にこやかになりかけたエンキの顔を覆った。
 悲鳴とため息の渦が闘技場を包んだ。


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