五、離

 事件を境に、サディの評価は衛士団だけでなく一般人の間でも急落した。曰く何故体調を整えておかなかったのか。どうして闘技場を去るまで我慢できなかったのか。人々は彼が限界まで耐え抜いた事実を見過ごし、ひたすら悪夢の瞬間のみを反芻した。
 対抗戦の勝敗決議は揉めに揉めた。まず挙げられたのは、刃を首に突きつけた時点で勝負はついており、その後何が起ころうともサディの勝利は揺るがないという意見である。一方で、サディも限界を超えたのだから勝利と呼べるものではないと反論もあった。更にはあのまま勝負が続いていたらサディは戦闘不能であるからしてエンキの逆転勝利と見なすべきと、極端なことを言う者も現れた。そして、両都市の衛士団幹部、市長、市会議員、運営委員全員が一同に介し、侃々諤々の議論が行われた末、今後二度と同じような事件が起こらないようハイトが管理を強化するという約束のもと、ようやくサディの勝利が認められたのである。
 長い長い会議の間、サディに対するいたわりや憐憫の情が表出することは一度もなかった。
「とにかく奴は二度と出すな」
 大勢の人間が実際に嘔吐する瞬間を見てしまったおかげで、町はしばらくその話題で持ちきりだった。風説には尾ひれが付き、彼がたまたまエンキの顔に嘔吐したという事実はいつの間にやら狙いすました行動であるように語られ、あるいは相手都市への宣戦布告と言われ、サディは悪意のヴェールを被せられ貶められた。
 街角では子供達が喉に指を突っ込んで嘔吐く遊びが流行り始めた。父兄達がその根源をサディに求めたため、彼は一時期アンチヒーローの象徴となった。それまで彼を慕っていた女性達も半数以上が厳然たる現実を見せつけられたことで心を離して行った。
 影響を受けたのは周囲の人間だけではない。胃液と薬湯のカクテルを浴びせかけられたエンキもその後は散々なものだった。彼は対抗戦の翌日から、毒の滝に打たれて身体が腐れて行く夢を毎晩のように見る羽目になる。そのため夜中に飛び起きないで済む日は三ヶ月に渡って失われた。更には起きている間もうつむく度に天から何かが降ってくる妄想に蝕まれ、一種の神経症として一時期は団長職を離れざるを得なかった。しかし、ケガの功名と言うべきか。復帰後はどんな劣勢の試合においても頭を垂れたり膝をつくことがなくなり、数年もすると不撓不屈の戦士として名を馳せて行く。それはまた別の話である。
 一方、サディ本人はと言えば件の失態によって衛士団での地位が取り返しのつかないほど損なわれてしまった。出世の道は完璧に閉ざされたと言える。また、対抗戦から弾き出されたのはもちろん、団内の定期戦でも彼の相手になろうとする者は一人減り二人減り、終いには殆ど誰もいなくなった。日常の訓練ですら大多数の団員が彼との手合わせを躊躇した。食事時に進んで彼の隣に座ろうとすることは間違った勇気の象徴と捉えられ、それ以外の場面でも団員達は彼に近づかなくなって行った。薬草を盗んだアンガス一派ですら彼に手を出そうという姿勢は見せなくなり、やがて彼の存在を無いものとして扱うようになる。要するに、苛めが無視に変わった訳である。
 僥倖もある。サディの症状が対抗戦を境に段々と改善されて行ったのである。これには見習い薬剤師レーゼの存在が大きく関わっていた。
 彼女は研究という名目の元にサディの症状を仔細に調べ上げ、また自宅やら図書館の文献を漁っては新薬の調合に努めた。また、ことあるごとに彼の元を尋ね、時間が許す限り顔を合わせて話し合った。旅商人が町へ来るたび新たな薬草を仕入れもした。それまで誰も成し遂げられなかった内臓疾患の薬物治療に心血を注いだのである。
 その結果、即効性の薬湯と遅効性の煎じ薬を組み合わせることで、彼の状態は徐々にではあるものの改善の気配を見せ始める。そして、一旦兆候が現れればあとは全てに加速度がついた。
 軸にする薬を選定し、織り交ぜる副次的な薬草の量を葉一枚単位で調整する。全ての処方を羊皮紙にまとめ、最善の組み合わせを特定して行く。作業は気の長いものだったが、彼らの間に焦りはなかった。
 三年も経った頃だろうか。サディの顔色は昔とは別人のように血色を取り戻していた。薬さえあれば健常者と同程度の生活が出来るようになったのだった。身体は軽く、歩みの頼りなさは嘘のように消えていた。そして、それは同時に衛士団最強の力を手に入れたことをも意味した。
 それでもハイトを除く大多数は彼を認めておらず、失態が帳消しにされることもなかった。
 身体の復活に伴って彼の内面にも何らかの変化があったのは間違いない。それが証拠に、日常では大人しさを保っていたものの、訓練で出番が来れば彼我の立場など考えず相手を打ち倒す場面が多々見られるようになった。また、人と対面する時に時折見せていた申し訳無さそうな態度も駆逐された。主張のなさを除けば、彼はいっぱしの衛士としての態度を身につけたのだと言える。
 更に月日が流れ、ある日サディは久々に定期戦への出場を認められる。ハイトの尽力の成果だった。
 訝しげな視線が見守る中、彼はハイトの期待通り立て続けに十人の衛士を倒してみせた。全てが一撃必殺の鮮烈な戦いぶりだった。戦いを見守る団員は、倒される仲間が増えるごとに顔色を悪くし、終いには何かが張り付いたかのように表情をこわばらせていた。サディの気勢は観戦者を圧倒し、一部からは控えめな賞賛の拍手さえ引き出した。一瞬に過ぎないかも知れないが、彼は本来あるべき地位についたと言ってよい。
 だが、彼はその事に喜びを表したりはしなかった。代わりにふっとため息を一つ吐くと、次の相手を待たずにその場から立ち去ったのである。
 団員達は体調不良と捉えたのだろう。みな大した疑問を浮かべることなく彼を見送った。誰一人として引き止める者はいなかった。サディに固執し続けていたあのハイトですら。
 翌朝、サディは少ない荷物と共に衛士団からいなくなった。否、正確には衛士団ではなく、町から姿を消したのだ。同じタイミングでレーゼも薬草やら調剤器具と共に行方不明になっており、町は一時騒然となった。
 ハイトは衛士団を動員して町とその周辺部をしらみつぶしに捜索した。また、市長に働きかけて隣接都市に触れ書きを出すなど、越権行為と言われる程にサディの足跡を追い求めた。
 だが、そこまでしても芳しい成果が現れることはなかった。サディとレーゼは誰にも何一つ語らぬまま町に別れを告げ、跡には塵すら残されていなかったからである。市民は二人が駆け落ちした、サディの後をレーゼが追ったと様々な噂を立てたが、どれも証明には至らないまま煙のように立ち上る先から消えた。
 レーゼの父親だけはその気配も理由も気付いていたようだが、ハイトが事情聴取に訪れた時、彼は何も言わず首を振るだけだった。その態度から垣間見えた事実に、ハイトは天を仰いだ。彼を慕っていた団員も彼に惚れ続けていた数少ない女性達も、しばらくすると諦めに辿り着かざるを得なかった。
 数ヶ月も経たず、彼らの事を話題に出す者はいなくなった。

 その後何度か対抗戦の伝説が持ち上げられることはあったものの、二人の行方は依然として知れない。


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