パラフィン

 高圧電線から俯瞰すると、眼下にあるはずの森は分厚い霧の中に沈んでおり、等間隔で並ぶ鉄塔だけが数少ない足場に見える。腰掛けている旧式の電動滑車が悲鳴を上げ、そろそろ潮時かと僕は考える。
 懐中時計の針は朝の九時過ぎ。ちょうど式が始まった所だろう。
 去年の暮れ、あらゆる学校の卒業式を同時に執り行う法律が施行、更に国旗掲揚と国歌斉唱が国公立私立を問わず義務づけられた。違反者は教育施設行き。
 もちろん反対の声は大きく、署名からボイコット宣言、デモ行進に暴動まで起こったけど、軍閥の連中が聞き入れるはずもなく、幾つかの見せしめと弾圧を経て法案は両議会を通過した。で、今日が第一回目の一斉卒業式になる。
 僕はヘッドフォンのコードを電線に当て、周波数をアングラ電線ラジオに合わせる。ノイズノイズ、神経の切れる音。反政府系レーベルの代表歌手が威勢良く叫ぶ。
「俺はお前ら楽しませるために生きとるんちゃうんじゃ!」
 その通りだ。北から南まで国歌斉唱なんて馬鹿げている。僕達は軍部のために制服を着た訳じゃない。
 電動滑車はいよいよ限界と言わんばかりに軋み続ける。夜通し高圧電線を走り続けるのは無謀だったかもしれない。
 ヘッドフォンを外して耳を澄ますと何処からともなく国家の合唱が聞えてきた。混ざり合い個性を失った歌声は吐き気と脂汗を誘発する。今この瞬間、誰もが国歌を歌っているのだ。
 逃げ出そう。
 何度も繰り返して来た言葉を今一度思い、ハーネスを外し、重力と手を繋いで霧の森へ向かう。
 森へ降りれば引き返す事は出来ない。僕は今から一人で生きなければならない。ならばこれは僕一人の卒業式だ。成る程、一つの反抗にはなったのかもしれない。
 パラシュートを開いて着地の準備に取りかかると同時に、好きだった子の顔が頭に浮かぶ。僕は一瞬天を仰ぎ、それから彼女の笑顔を霧で塗りつぶす。

後書き
 テキスポさんの「第二回800字バトル」に投稿した作品。入選して『800字文庫(3)』ってウェブ本に収録されました。同じフォーマットの創作を繰り返すと淡白になるか情緒に偏ることが多く、バランスをとるのがなかなか難しい。この三題噺シリーズでは十種類くらいの「僕」を提示しようと思っておりましたが、これが最終回だそうで、振り上げた拳のやり所に困っています。タイトルはドイツの造語で「ほとんど無関係の」の意だそうです。英語では「灯油」。


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