チューズデイ・ワンダーランド

「ご主人様、お帰りなさいませ」
 成層圏の空は限りなく黒に近かったが、太陽は地上よりも力強かった。夜の終わりと共に上昇を始めて何時間経ったのか、地上では山々の間から一端を覗かせていただけだったのが、今や丸みを帯びた地平線から頭一つ抜け出していた。空気は薄く、気球の頼りなさと来たら、まるで風船に掴まっているような気分にさせられる。
 吸入器から今一度酸素を吸い込み、特に覚悟もせず遺言も考えないまま、僕は思い切ってアルミニウムの篭を蹴った。すると、それまで無関心に気球を空に放り出していた地球が、途端に無慈悲なブラックホールと化して、僕とスーツとパラシュートと、そのほか地上に着くまで必要な小物を力任せに引き寄せ始める。やってしまったという後悔と、同じだけの開き直り。空気の固さを感じながら半回転して上空を見上げたら、疲労困憊の気球が陽光を冷たく反射していた。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
 僕が規定の高度に達した時、最後に受けた通信がこれだった。シンプルだけどそっけなくはない。
 お帰りなさいませ? 帰って来たのか? 空に? 僕が進化の樹を遡って鳥にまで戻ったというのだろうか。そもそも鳥と人間はどこで分かれたんだっけ。
 行く先に視線を戻したけれど、真下は雲に覆われていてどうなっているのかよく分からなかった。実は軌道計算が大幅に狂っていて、分厚い雲を何層も抜けた先が切り立った山やそれどころか海だったらどうしようと、少し心配する。でもまあ、多分大丈夫。「多分」と言えるくらいの余裕を持ち合わせているのだから。
 第一層を抜けた先は雷神の住処だった。第二層との間を稲光が引っ切りなしに行き来しては派手な音を立てる。世界最強の腕時計に内蔵された方位磁針がパニックに陥って、インカムからは訳の分からないノイズがやかましく聞こえてくる。そして、そのガーガーピーピーに混じってまたぞろ声が。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
 成る程、宙づりの死にかけが僕の居場所か。ひどい事を言う。もしここで雷に打たれて死んだらこの世で最後に聞く人の声になるというのに、ちょっとあんまりじゃないか。
 濃灰色の雲の檻が白く光る度に僕は身体を震わせる。さっきまではのんびり降りたいと思っていたのに、今はさっさと地上に戻りたい。
 戻りたい。その場所は時と場合によって変わる。気球に点火した時は成層圏に戻りたいと思っていたし、前回のダイブ中は地上なんか忘れて空のどこかに戻りたかったし、今はまた違う場所を思っている。結局僕はどこに行きたいのやら。
 それから何層もの雲を抜けて、薄緑色の大地が見えてくると、僕は少し安心する。自分の記憶に近づいて行くような感じだ。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
 声のトーンは変わらない。もしかすると、録音したものを嫌がらせみたいに繰り返し流しているのかもしれない。空気はどんどん分厚くなって、頬に当たる風が痛い。パラシュートを開くまであと少し。五秒前。二千メートル。紐を引いた瞬間僕と地球ががっぷり四つに組み合って、ハーネスの締め付けがきつくなる。地平線が大分直線に近くなっている。遥か彼方の都市が見える。山は北海道の短い夏を喜んでいる。僕はやっぱりそこに戻りたいのだと再確認させられる。
 そして、軟着陸。結局全ては計算通りで、少しの退屈さと気怠さ。
 スタッフに先立つように、彼女が駆け寄って来て、薄く笑って言う。
「ご主人様、お帰りなさいませ」
「それ、流行ってるの?」
「はい、好きなんです、倒置法、最近、私」
 毎週火曜は倒置法の日なのだ。


後書き
 テキスポさんの「クイックライトバトル」に投稿した作品。お題が出されてから一時間で書きます。結局メイドさんになっちゃいました。今は亡きエスビョルン・スヴェンソンに捧げようとダイビングをテーマにしましたが、追悼出来てないな。


最後まで読んでくれてありがとう