七月手帳

 視線を手すりの向こうに移すと、私と夕陽の丁度真ん中を浮魚が何匹も飛び跳ねていた。夏の終わりによく見る光景。実家がマンションだとちょくちょく浮魚を見られるのが嬉しい。
 廊下を小走りに駆けてエレベーター脇の重い扉を引く。太陽の裏側になる非常階段はもう影で薄暗くなっている。
 私の家は四階だけど、必要がない限りエレベーターは使わない。他の住人と乗り合わせたら何だか気まずいし、階段の上り下りも運動の一つだから。私は今日も自分に言い聞かせて非常階段を下りる。
 と、半分ほど下ったところで、階段に腰掛けうずくまっている男の子を見つけた。年は十才くらいで、かすかに茶色がかった綺麗な髪をしている男の子。よく見ると肩が震えていて、泣いているみたいだった。
「どうしたの?」私は不用意にも声をかけてしまう。悪い癖。
 男の子はこちらを振り向いた。よっぽど泣いたのか、目が充血している。袖口は涙の夕立でずぶ濡れだ。私は不審がられないようにっこりと笑いかけてみた。彼は少し私の方を見上げていたけど、すぐまた両腕に顔を埋めて静かに泣き出した。
 仕方なくその子の隣に腰を下ろして、軽く背中を撫でてやる。本当に悪い癖。面倒そうに見えると何となく手を出してしまう。
 数分も泣き続けただろうか、彼はふと目元をぬぐって私の方を見た。
「あのね」
「うん」努めて笑顔で返事。
「僕、捨てられちゃったんだ」
 何だか衝撃的な発言を聞いた。初対面の相手にそんな話しちゃっていいのかしら。
 でも乗りかかった船だから私は話をやめない。
「どうして捨てられちゃったの」
「あのね、七月が終わったから、僕はもう用無しになって、それでお兄ちゃんに捨てられちゃったの」
「君は七月以外用無しなの?」
「うん、僕、手帳だから」
「は?」
「手帳」
 手帳の意味は分かるけど言っている意味は分からなかった。
「君、手帳なんだ」
「うん」
「名前は?」
「文月」
「へぇ、私と同じ名前だね」
 そう言うと、彼の顔がぱっと華やいだ。泣いたカラスがもう笑う。彼の顔は、笑うと子犬みたいに可愛らしく見える。
「ねえ、文月君。君が手帳なら私が使ってもいいよ」
 思わず言ってしまった。
「本当?!」
「本当だよ。ちゃんと捨てないで使うし」
「でも僕、七月しか使えないんだよ」
「それじゃ、七月は君専用に空けておくから」
 とか何とか言えば納得して帰るかと思ったのだ。
「ありがとう、お姉ちゃん。僕、頑張るから」
「うん、私もたくさん予定書くよ」
 文月はもう満面の笑みで賞賛の視線を送って来る。いいのかなこんなんで。
「それじゃ僕、手帳に戻るね」
 と、文月が嬉しそうに言ったと同時に踊り場で浮魚が一匹、とぷんと跳ねた。一瞬そちらに気を取られて、それから隣に意識を戻すと文月の姿はなく、代わりに茶色でキャンバス地の手帳が残されているだけだった。開いてみたら本当に七月の頁しか存在しなかった。
 そんな訳で、私は今でも七月が近づくと文月を取り出し予定を書き入れる。昔の七月も覚えておいてくれるから、便利と言えば便利かもしれない。


後書き
 いっぺん ー I can't stop reading you.さんの「お題で書いてみませんか?」って企画に投稿したお話。また字数オーバーだよ。浮魚は音ではなく文字として認識していただければ。敢えて読むならウキウオでお願いします。


最後まで読んでくれてありがとう