非常階段を下りるとそこはさよならの国。
螺旋状になった階段が終わりを告げると、私は砂場のような地面に足を踏み入れた。頭上の丸い入口は少し隙間が空いていて、染み出した冷たい日射しが私を狙い撃つ。
階段の切れ目から百歩進むと国の中心部だ。暗闇に目が慣れてくると、砂が円形に縁取られて簡単な魔法陣を描いているのが分かる。円の四方から中心に向かって伸びる直線と、それを遮る更に小さな円。小さな円の中だけは砂の色が濃くなっている。
私は鞄から手帳を取り出しつつ魔法陣に向かって歩を進める。手帳をめくれば昨日のデートから十年前の遠足まで、私が書きとめた全てが二重、三重写しになって飛び込んでくる。この手帳は私の思い出そのものだ。でも魔法陣に着いた時、私はこれを手放さなければならない。
さよならの国は何かを与える代わりに同じ重さの別れを要求する。大事な何かが欲しければそれだけのものを差し出さなければならない。等価交換だ。
私は友人を取り戻すためここに来た。手に入るものの中でも人の価値は特に重い。だから手帳を差し出すのだ。大事な大事な分子変換式無限手帳。小学校からずっと使い続けてきた私の分身を。
もう円が間近に迫っている。誰かが差し出してしまった可哀想な彼女を、私はどうしても救いたい。
円が薄く光を放った。まずは代償をよこせ。私は躊躇う。だって、この手帳も失いたくないんだもの。両手で手帳を抱きしめると涙がぽろぽろこぼれてきた。私に選ぶ権利なんかない。
私は彼女と初めて会った日のことを強く思う。校門脇の散りかけた桜、もやのかかったたくさんの生徒、その中で唯一鮮明だった屈託のない笑顔。胸に入って渦巻くような声。渓流みたいに澄んだ瞳。
覚悟が決まる。
手帳を開いて今日の日付に最後の言葉を書き入れると、そのまま光に向かって放り投げた。書いたのはごめんでもありがとうでもない、最近覚えたさよならの挨拶。
後書き
いっぺん ー I can't stop reading you.さんの「お題で書いてみませんか?」って企画に投稿したお話。目指す所はミニマルであります。
最後まで読んでくれてありがとう