アナログカメラ

「姉ちゃん、あれ!」
 僕が指差した百メートル向こうのマンションの非常階段では高校生くらいの女の人が手すりを乗り越え空を背にして風に髪をなびかせていた。今、外側に向き直った。すごく活きの良い卵の黄身みたいなオレンジ色をした夕陽を背景に、彼女は何だか今にも飛び降りそうな気配をこちらまでにおわせてくる。手帳に何か書き付けている。
「飛び降りちゃうかも! 止めなきゃ!」
 焦って走り出そうとすると、姉は速やかに僕の首根っこを捕まえた。
「優ちゃん、わたしに任せて。さっきすごいの買ったんだ」
 姉が得意げな顔をすると僕は嫌な予感を覚える。
 姉はおもむろに安売りの殿堂ビニール袋から古ぼけたポラロイドカメラを取り出した。
「ポラ?」
「アナログカメラっていうの。まあ見といてよ、すっごいから」
 そうは言っても女の人は切羽詰まっている。姉は対照的にのんびりした動きでファインダーを覗き込み、どうやら彼女にピントを合わせたみたい。
「はいこれでいつ飛んでもオッケー」
 飛んじゃまずいよ。でもそんな突っ込みを入れる間もなく女の人は飛び降りた。僕の身体は硬直して、しゃっくりみたいな声が口から飛び出した。姉はしかし全く動じず、落下中の彼女に向かってシャッターを切った。
 すると彼女が空から消えて、代わりに彼女の写真がカメラの下から吐き出された。
 姉はしばらく写真を振って画像が出て来るのを待ち、それから僕に水を要求した。
「ペットボトルの持ってたよね」
 食べ物飲み物に関して姉に死角はない。
 言われた通りペットボトルを手渡すと、自分で飲むのかと思いきや写真に向かってかけ始めた。そして水浸しになった写真をアスファルトに置く。間もなく写真から湯気が立ち上り始め、あっという間に一メートル四方くらいの空間を覆い尽くした。
「姉ちゃん、何これ」
「それは見てのお楽しみよう」
 楽しみじゃない気がする。とにかく待っていると湯気は徐々に散って行った。そして後に残されたのは写真ではなく例の女の人だった。尻餅をついたような格好で、自分の置かれた状況を何一つ理解できず呆然としている様子だった。しきりに辺りを見回す。
「はじめまして!」姉が快活に話しかけた。
「はあ」女の人はまだ惚けた感じで、それでも一応返事をしてくれた。
「ごめんね、夢見悪くなるから勝手に助けちゃった」
「え、えと、あの、どうやって?」
「それは秘密」
 女の人は訳が分からない表情で姉を見つめていた。そりゃそうですね。
「そっか、生きてんだ」
「ごめんねえ」
「ううん、なんか、ありがとう」
 どうやら落ち着いたみたい。姉と顔を見合わせて笑う。
 と、また彼女がおろおろし始めた。今度は何かを忘れたらしく、ポケットやその辺の地面をまさぐっている。
「何かなくした?」姉が尋ねる。
「手帳」
「手帳?」
「そう、手帳。あれないとやばいの。誰かに見られたら……」彼女の顔色が段々と白くなり始めた。
「姉ちゃん、写真には入ってた?」
「や、多分撮り損ねたと思うよー。だとしたらーー」
「マンションの下!」彼女が叫んだ。顔はもう雪国の人みたいに真っ白だ。慌てて立ち上がってスカートの埃も落とさずマンションに向かって駆け出して行く。「ごめんね、ありがと!」
 自殺を終えた彼女が走り去ってしまうと、後には人の映っていない写真だけが残された。姉はその埃を払ってビニール袋に放り込む。僕は彼女が現れた空間を惚けた顔で見続けていた。
「姉ちゃん、あの人の手帳、どんなことが書いてあったんだろう」
「何だろうね」
 姉は謎めいた笑みを浮かべ、僕の髪を優しく撫でた。


後書き
 いっぺん ー I can't stop reading you.さんの「お題で書いてみませんか?」って企画に投稿したかもしれないお話。実に二ヶ月ぶりの姉弟。初めて二人以外の人物が出てきました。自殺妨害されたのにありがとうとか言っているのは、飛び降りの時点で自殺は完成すると作者が考えているからだと思います。


最後まで読んでくれてありがとう