スライス、レディ!

 姉が手刀で大根を真っ二つにした時はさすがの僕もびっくりして、熱でもあるのか確かめようと額に手をかざしたけれど、その点特に問題はなかったみたいで一安心だった。それでは姉はどう感じているのかと思いまな板の脇から顔を覗き込んでみたら、案の定新しい玩具を見つけた子供にしかできないキラキラ星まみれの目をしてかすかに震える自分の右手を見つめていた。
「優ちゃん、わたしの手が手刀になっちゃった!」
 それで何を切るつもりなの、姉ちゃん。
 といった切り返しも考えつかないほどに混乱していた僕は、とりあえず防刀手袋が必要で、でもそんな物どこにも売っていないから布を買って来て自作しなければいけないのか、それとも姉の手は完全に手刀と化した訳じゃなくて好きな時に好きな物だけを切れるのか、手刀は一生続くのか、手を繋いだ彼氏は刻まれるからちょっといい気味、それを言ったら僕も手を繋げないから駄目、なんて勝手な事で頭を渦巻かせていた。
「ちょっと色々試して来るねー」
 と言ってそそくさと立ち去ろうとする姉のカットソーの裾をつまんで僕は止める台詞を考え考えやっぱり止める事は不可能という結論に達したのでお目付役になることを決意した。
「姉ちゃん、僕も行くから」
「うんそうだね。やっぱ優ちゃんも見たいよね。分かってる分かってる。ちゃんと連れて行くつもりだから心配しないでってー」
 そういう意味じゃないんです。
 結局その日は木の枝だの竹林だの粗大ゴミをばらしただけで、大した騒ぎは起こらなかった。あ、でも竹を一振りで十本薙ぎ倒した時はちょっとまずいんじゃないかと思ったし、実際びっくりした地主さんがダッシュで追いかけて来たから更に竹を切りまくってバリケードにして逃げて、何て言うかすごく申し訳ないことをしてしまった。どうしよう、犯罪者だよ姉ちゃん。不法侵入器物損壊。
「うーん、ま、仕方ないじゃん!」
 笑いながら僕の肩を叩くその手に刃物の気配はない。手刀を自在に引っ込められるようになったのか。それなら安心かも知れない。
 僕の期待は翌日の学校であっさり覆された。聞いた話によると試験のプリントを細切れにした姉はその勢いで机も真っ二つに切り捨て、教室の扉にでかでかと十文字の傷をつけた挙げ句、押えようとした男子の前髪もぱっつりやってしまったらしい。その結果、一週間の停学と医者の検査を受ける事が厳命され、校長先生からも直々におしかりの言葉を頂いたと言っていた。
「校長、わたしより背ぇ低いんだよ」
 しかし病院でレントゲンやCTをとったり触診(医者は本当に触るのを嫌がっていた)を受けたりしても芳しい成果は上がらなかった。姉には精神安定剤が渡され、出来るだけ心の平安を保つよう説教までいただいた。座禅をしろとも言われたような気がする。
「姉ちゃん。姉ちゃんは座禅とか行かないんだよね」
「行かないよう。優ちゃんが一緒なら行ってもいいけど、わたしフラットな心なんていらないもん」
 それは僕も知っている。
「それに多分、もう何も起きないよ。抑え方分かったし、もう飽きちゃったし」
「へ?」
「手刀の抑え方。優ちゃん左手出してみ」
 僕は言われた通り、姉の前にすっぴんの左手を出す。姉はその手を少し眺めた後、予備動作もなしに手刀の右手で握りしめた。一瞬びくりとなったけど、感じたのは刃物の冷たさじゃなくいつもの姉の、冬晴れみたいにスレンダーな右手。つまりどういう事ですか?
「ぴったりくるでしょ? 優ちゃんの手とわたしの手。だからこうやって握ってたら何ともないの。鞘みたいなもん」
「僕の手が鞘?」
「そ、優ちゃんしかわたしを止められる人はいないんです」
 そんな事をいきなり言われても困ります。確かにこの手はしっくり来るし、手刀も現れる隙がない感じだけど。
「あ、納得してませんって顔してるー」
 納得していない訳じゃなく、嬉しくて驚いていたんだと思う。
「姉ちゃんの手と僕の手、一つだってことだよね」
 姉は薄紅色の笑みを浮かべて深く頷いた。
 姉の手は、僕のために変化する。僕の手は姉が枷をはめられないよう、代わりに蓋をする。それは僕達が互いに守り合って生きている何よりの証拠なのかもしれない。そう思うと嬉しくて居ても立ってもいられない気分になる。
「姉ちゃん」
「うん?」
「何か起きたらすぐ言ってね。僕も姉ちゃんを守るから」
 姉は何も言わず、笑って僕の髪をぐしゃぐしゃ撫でた。
 で、どうして大根だったのか。
「大根切りって手で出来るかやってみたかったんだよねー」
 やっぱさっきの、ちょっと訂正。

後書き
 腕ならしに書きました。その割に時間がかかり、書いていて結構苦しかった。姉弟もので苦労したのは初めてです。産みの苦しみ?ではなく、多分腕が鈍っていただけであります。


最後まで読んでくれてありがとう